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第20話「逃避」

「ど、どうしたんですか、、?」 乱れて汗だくになって研究室に帰ってきた菅原に、平野は目を見開いてそちらを向いた。 ちょうど、淹れたばかりのコーヒーの匂いが部屋の中を満たしている。 「いや、、運動、しないといけないなって」 肩で息をしながら、ふらつく脚で踏ん張って自分の席まで戻ると、はあー、と長く息を吐いた。 泣きそうになっていた顔は、走った事で何とか誤魔化されている。 「コーヒー、氷入れて出しましょうか?」 「大丈夫、今はいいや」 平野は学生時代に菅原にゼミの助手を務めて貰っていた元生徒だ。 彼の良からぬ噂も知っているが、それでも世話になった時間を覚えているせいもあって中々厳しく接する事ができない。 菅原は研究室内に教授が誰もいない事を確認すると、一度机に突っ伏してまた直ぐ起きあがり、仕事をする為にパソコンを開いた。 (何なんだ、、何なんだよ、) カタカタカタカタ、と怒りに任せてタイピングする。 菅原の頭の中を、義人がぶつけた言葉がぐるぐると回って止まらずにいた。 『誰かにもらえなかった愛情を、テキトーに藤崎で埋めようとしてるなら、やめて下さい』 目の前に蘇った強い視線はこちらを睨み上げ、人でも殺しそうな眼差しで菅原を捕らえて離さない。 「ッ、、!!」 ギリ、と歯を食いしばった。 何も知らない子供に自分の本性を見抜かれたような妙な感覚が身体を襲い、それは恐ろしく気持ち悪く肌の上を畝って這いずっていく。 菅原は無意識にTシャツの胸元を掴み、布をクシャクシャに握りつぶし深いシワを寄せながら、もう一度机に突っ伏した。 頭だけを机に乗せ、椅子を引いて身体はだらんと脱力していた。 (何であんな子供に言われた事を気にしなくちゃいけないんだよ) いつも、目を閉じると脳裏に蘇るのは誰もいない部屋だ。 彼はこの記憶にずっと苦しめられている。 乾いた匂いまでもが思い出され、鼻を掠っていく。 次に、こちらに手を差し伸べて優しく笑う男の顔が浮かんだ。 「、、孝臣さん」 誰にも聞かれない小さな声でつぶやいた。 それから、隣で料理を作りながら自分に怒ってくる女性と、反対隣で自分の切ったきゅうりの形に文句を言う歳下の男の子を思い出す。 「由紀子さん、、恭ちゃん、、」 それは、菅原にとって全てと言える程、愛しくて大切なものだった。 『疲れてるね』 初めてその言葉を言ったのは西宮孝臣(にしみやたかおみ)と言う菅原の恩師。彼の父親代わりでもあるその男は、憐れむ訳でも蔑む訳でもなく、労う優しい声色でそう彼に囁いた。 『疲れませんか?』 そして今度は、それを知り合って間もない義人に言われた。 「、、、」 どちらも意味は同じだった。 今日疲れたー?なんて言う軽いものではない。課題で疲れた、仕事で疲れたと言う身体の話でもない。 (何なんだ) 心が疲れませんか?と、あのとき義人は菅原に聞いたのだ。 (、、疲れたよ) 確かに義人が聞いたように、永遠に手に入らない愛情を探し続けて、もう、菅原の心は疲れ切っていた。 「あ、いたいた」 仕事が終わるまでの間、菅原は義人の事を考えないようにした。 そして仕事が終わる前に、何ヶ月前に出会い系アプリでマッチングした女性を新宿に呼び出しておいて合流すると、夕飯を食べてからホテルに向かう事になった。 その間もずっと、菅原は義人の顔すら思い出さないように、心の中ではずっと目を瞑り続けている。 「ゆうくんどうしたの?今日、元気ないね」 女は微笑みながらその頬に触れ、艶かしい視線を彼に向ける。 菅原は分かりやすい人間ではない。 それが、今日はやけにはっきりと疲れた顔をしていた。 表情はいつもニコニコとしていてあまりそれが剥がれる事もなく、機嫌の良し悪しはバレない事が多かった筈なのだが。 「今日、仕事でいっぱいミスしちゃってさ〜」 誤魔化すように言ったが、それは事実だった。 消そうにも、忘れようにもどうしても義人の顔が頭の中に浮かんでくる。 その度に仕事の何かを間違え、今日はミスが多くて平野にすら「体調悪いなら帰ってゆっくりして下さい」と言われた。 「可哀想。慰めてあげるね」 ホテルの部屋に入るなり、女はベッドの上に仰向けに菅原を押し倒し、その上に馬乗りになって見せつけるように1枚ずつ服を脱いでいく。 「やったあ」 菅原の今日のミスや彼らしくない表情の変化。全ての原因は義人にあった。 (ムカつく) 思い出したくなくても思い出してしまうあの顔に、菅原はワナワナとまだ苛立ちを覚えている。 「どうされたいー?攻められたいか、私のことめちゃくちゃにしたいか」 「んー、どっちが好き?」 アプリの登録名は「ゆり」だが彼女の本名はわからない。それでももう何度目かの逢瀬であり、菅原は彼女をかなり気に入っていた。 「じゃあー、」 始まったプレイに集中し、菅原は全部忘れてゆりを抱く。 男と違って豊満な肉の詰まった大きな胸を揉み、乳首を吸って、舌で刺激する。溢れ出ているとろんとした愛液を絡め、ゆっくりと彼女の中に指を沈めると、ちゅるん、と暖かな膣内に吸い込まれた。 「ぁあんっ、あっ」 聞こえてくる高い嬌声で頭を満たし、無我夢中で彼女を乱していく。 彼女を押し倒し、股の間から埋めていた顔を上げて覆い被さると、いよいよ自分の硬くそそり立った性器を濡れそぼった入り口に押し当てた。 「来て、早く、来てっ」 ゆりの見た目は美しい。 30代前半で、艶めく長い茶色の髪。流行りのメイクが施された顔は目が大きくて鼻が細い。唇はふんわりとしていてキスをするのが気持ち良かった。 「ん、入れるよ」 なのに。 『疲れませんか?』 「ッ、!!」 その顔が思い出されて、頭から離れない。 (良い加減にしてくれ) 真っ直ぐと、こちらを射抜く視線が忘れられない。 「この、!!」 女の顔が義人に見えた。 そこからはもう訳が分からなかった。

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