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第23話「変化」
思えば昔から、誰にも埋められない風穴が、胸にポッカリ空いていた。
『アンタはいらない子』
その言葉と共に蘇る乾いた寒い部屋の中の風景が、自分の中から消える事は決してないのだろう。
原因が何かは分かっている。
けれど菅原にそれを自力で埋める手立てはなかった。
彼は初めて女の子と初体験を迎えたとき、身体だけでなく、心すらその暖かい体温に包まれて満たされた気がした。
それからは誰彼構わず心の穴を埋める為、性行為をするようになった。
「有紀くん、どうかしたの?」
「っえ、?」
いつも通りの優しい声で、西宮孝臣(にしみやたかおみ)は心配そうに菅原の顔を覗き込んだ。
後ろで1つに縛っている黒髪は長く美しく、夜露に濡れた鴉の羽のように輝いている。
「何か悩んでる?」
西宮は、菅原にとって父親代わりだった。
幼少期にネグレクト家庭となった家で育ち、父親にも母親にも家に置き去りにされ、食費も渡されず飢え死にそうな時間を多く過ごした彼は、愛と言うものが分からなかった。
生き延びて唯一楽しみになったファッションに目覚めモデルを目指したが、ガリガリの身体は鶏ガラと馬鹿にされ、バイトで食い繋ぎながら中学高校も荒れて過ごした。
作る側に回ろうと思い立ち、専門学校に入ると同時に知り合った西宮に、菅原は衝撃を受けた事を今でも覚えている。
『疲れてるね』
あのとき義人に言われた事と同じような事を、過去に西宮に言われていたからだった。
その頃の西宮はまだ若く、専門学校で服作りを教えていた。
その頃からもう男も抱き、また抱かれもしており、女性関係も派手になっていた菅原にその言葉は重たく響き、やたらと癇に障った。
会いたくなくても学内で自分を追い回してくる西宮を不審に思い、ベッドに誘ったが断られた。
そして何故か、彼の息子と妻と一緒に食卓を囲むようになっていた。
『寂しくて誰かといたいだけなら、ここで一緒にご飯食べようよ』
菅原の胸には、ポッカリと空いた穴がある。
それは誰にも埋めることの出来ない穴だったのに、セックスをすると一瞬だけ埋まるのだ。
それを求めて人生をめちゃくちゃにして来たのに、西宮はセックスでも何でもなく、食卓で菅原のそれを埋めてしまった。
『恭次の良いお兄ちゃんができたなあ』
当時小学生だった西宮の息子は多感で、自分とは違う様々な悩みを抱えていた。
その相談に乗り、西宮の妻と喧嘩しながら毎日のように夕飯を作りに家まで通い、帰ってくる西宮と過ごした日々は、堪らなく菅原を埋めて行った。
普通の幸せを感じた。
何処にでもあるのに菅原になかったものを、西宮は菅原に与えてくれた。
けれどそれも、長くは続かなかった。
『由紀子(ゆきこ)』
西宮の妻が、突然の病で呆気なく、一瞬でこの世を去った。
立ち上げたブランドの低迷期。西宮は家族を守る為に必死で働いていて死に際に彼女の隣にいなかった。
そして、暖かい家庭はまた、菅原の目の前で崩れ去ったのだ。
「、、、何でもありませんよ、孝臣さん」
「あら、そお?何かあったらちゃんと言って頂戴ね!」
「はい」
妻・由紀子がこの世を去って以来、西宮は自分に出来てしまったその穴を埋めるように女性の言葉を使うようになった。
元々たまにオネェ言葉を遣う人物ではあったものの、彼女が亡くなってからは無くなった存在を認める事を拒む様に、自分の中に父親と母親の面を持つようになったのだ。
それを見て、実の息子である恭次(きょうじ)は西宮と菅原から距離を置くようになってしまった。
「最近ね、恭くんはずーっと帰ってこないの。何処で何してるのかしら。良い感じの子がいるのかもーって、遠藤くんに言われたんだけどね」
遠藤と言うのは菅原と同じように西宮のブランドで助手をしている男だ。
自分と違い西宮と並んでも引けを取らない高身長で、程良く筋肉がついた物静かでどこか冷淡に見えるような男だが、西宮は自分と同じくらい彼を信用している。
恭次は去年大学生になり、今は2年生。
大城との繋がりで静海美術大学に通っているのだが、菅原は学内で彼を見た事がない。
確実に避けられている。
「恭くんだって男ですよ。大学生なんだから、その辺は放っといてあげないと」
「だって、、あの子すぐ危ない事するし」
「男の子ですよ?傷ひとつ残るくらい勲章でしょ。心配し過ぎです」
事務所の社長室で2人は昼休みを取っていた。
ガラス張りの部屋からは同じ階のフロア全てが見渡せる。
今は夏の新作発表に向けて忙しい時期だった。
「そうよね、、うん、分かった。どこで童貞捨てて来ても受け入れる」
「あはははは!」
菅原は、西宮といるときだけは本当の笑顔でよく笑う。菅原にとってこの上なく近い家族は彼と恭次だけだった。
買ってきた有名な通りにあるカツサンドを頬張り、泣きそうになりながら西宮はお茶の入った湯飲みを手を取る。
『誰かにもらえなかった愛情を、テキトーに藤崎で埋めようとしてるなら、やめて下さい』
穏やかな昼休みの最中に、菅原は手に持ったカツサンドを握り潰しそうになった。
ゴク、と喉が上下する。
あの時の義人の言葉から既に数日が経過していると言うのに、その記憶は真新しく、何度でも甦ってきていた。
「ッ、」
(何で思い出すんだ)
西宮達との家庭が壊れてから、菅原はまた女遊びが酷くなった。
当然男にも手を出し、自分が手に入れたいと思った奴らは脅せるものは脅してでも手に入れてきた。
そう。
またポッカリと穴が空いているのだ。
『疲れませんか?』
菅原は疲れていた。
もうずっと昔から。
愛されたくて愛されたくて、色んな人に手を伸ばして愛してもらえるように振る舞い続けているのに、決して手の届かない何かを追いかけ過ぎて、確実に、疲れ切っていた。
(佐藤義人、、か)
やたらと美しく、人を睨む生き物だと思った。
同じように愛に飢えた人間達の中にいた菅原からしてみれば、義人は異形のものだった。
「、、、」
藤崎のように華がある顔ではない。
よくよく見ると顔のパーツひとつひとつが美しく良く出来た作りだが、一見してそれは気が付かれにくい。
自分の個性的と言われる顔とはまた違った分からなさのある顔をしていた。
(、、また、誰か呼び出さないと)
それでも広間で言い返されたあの日の夜から、菅原は繰り返し女の子を呼び出してはその子を「義人」と呼んで抱いていた。
連日連夜、もう1週間が経とうと言う。
どうしても抑えられないのだ。もしあの真っ直ぐな瞳が自分に向けられて、藤崎に笑いかけるように安心し切った顔をこちらに向けられたらどんなにいいだろうと言う想いが。
「有紀くん」
西宮の声にまたハッとして、落としそうになっていたカツサンドを一度皿の上に戻す。
目の前の黒い皮張りのソファに座っている西宮を見上げ、菅原はへたくそに笑った。
「すみません、何でしたっけ?」
西宮にとって、菅原は第二の息子だ。
可愛がりたくて仕方がないのに、実の息子との間に出来上がってしまった壁を崩すので今は力を使い果たしている。
菅原の周りは、皆んなが皆んな、一様に疲れてしまっていた。
「本当に。何かあったら、教えてね」
「、、、」
薄い色の口紅が塗られた形の良い唇は、穏やかに笑っている。
「、、」
(この人に、)
これ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。
誰よりも愛しているからこそ、恭次との間にある壁を知っているからこそ、今はそっとしておいてあげたかった。
(頼るわけにはいかない。自分で解決しないと)
弱った笑顔はいつも通りに上手くは笑えていない。それに、菅原だけが気が付いていない。
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