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第28話「1人」

《今どこ?》 穏やかで優しい、人の良さそうな声だった。 もう一回セックスしようと言いそびれた菅原は、その声を聞いた瞬間の万里華の嬉しそうな表情に魅入る。 「友達とカフェに来てるよ」 愛しげに男と話す彼女が、藤崎に話し掛けているときの義人の姿と重なった。 《あ、今日その日か。俺早く帰れそうなんだけど、夕飯どっか行かない?》 時刻は19時を過ぎた所だった。 「えっ!そうなの?じゃあすぐ帰るよ。たくさん話せたからもう帰ろうかって言ってたの」 「ぇ、、?」 菅原が小さく声を出すと、万里華は菅原を睨んでもう一度、シッ!と人差し指を唇に押し付ける。 《食べたいもの考えておいて》 「うん!分かった、じゃあ最寄駅に着いたら言うね」 《うん。じゃあ後でね》 「はーい、後でねー!」 それで通話終了のボタンが押される。 菅原は流石に困惑していた。今まで万里華が一回だけでセックスを終わらせる事も、途中で帰った事もなかったからだ。 彼女は携帯電話をサイドテーブルに戻すと、ベッドの下に落としていた自分の下着を拾い集め始める。 「ごめん帰るね」 「え?何で?もう一回ヤろうよ」 「んー、シたいんだけど、旦那が待ってるから」 「、、旦那?」 彼は耳を疑った。 「あれ?言ってなかったっけ?先月結婚したの。元セフレなんだけど、結構真剣に付き合っちゃって、そのままゴールイン!」 そして唖然とした。 何もかも聞いていなかったからだ。結婚する程気に入っているセフレがいた事も、結婚した事も、何もかも。 何年も一緒にこの関係を続けてきたのに。 「一緒に出る?先に出て良い?」 「、、俺聞いてないんだけど」 「ごめんってば。色んな人に話してたからもう言ったと思ってたの。でも結婚しても変わらないから。バレずに会おうね」 ニカッといつも通りの笑みが見える。 しかし菅原の頭は追いついていなかった。 「もう一回シないの?」 「ごめんね。すぐ帰ってくるから行かなきゃ」 「遅れるって言えば?」 「んー、旦那とご飯行きたいし」 申し訳なさそうな顔をしながら万里華がブラジャーを付けつつこちらを振り向く。 線が細く胸が大きい彼女のスタイルを眺めて、菅原は頭を整理していた。 「ごめん先帰るね」 ずっと同じ部類だと思っていた彼女に、自分や他の連中よりも優先される存在ができてしまった事に驚愕し、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまっている。 彼女が上着まで着終わると、対して菅原はパンツだけ履いてベッドを降りた。 「マリ」 「ん?なに?」 彼女は最後に鞄を肩にかける。 去年の誕生日にあげたその鞄を、彼女は自分の夫に誰にもらったと言ったのだろうか。 「、、俺達ってこのままだよね?」 「そうだよ。どうしたの急に」 「いや、、旦那さん優先なんだと思って」 前はそんな事がなかった。 セックスが優先だった。 「んー、他の人からの呼び出しなら有紀とセックス続行なんだけど」 彼女らしくない、照れたような笑みが見えた。 「旦那との時間が1番大事になっちゃった」 「ごめんね、またね!」と彼女が言うと、シャワーも浴びずに部屋から出て行ってしまった。 (変わらない?変わってるじゃん、もう) ポツンと残された彼は、どうしようもなく目から涙をこぼし始める。 こんな事には慣れている筈だ。違う女と泊まると思っていた逢引きがなしになった事なんて何度でもあった。 「ッ、、何で、」 けれど今の彼には、それに耐えられる精神の強さはない。 「何でッ、、」 1人きりの部屋の中で、ベッドに寄りかかりながら床に座り込む。 一泊16000円の部屋は、菅原1人にはどうしようもなく広く虚しく感じられた。 「何で、どいつもこいつも!!」 叫んでもどうせ誰も聞いていない。 3階のこの部屋以外では、両隣も、上の部屋も下の部屋も、きっと斜め隣の部屋も全て、誰かと誰かがセックスしている。 それは菅原と万里華のような関係かもしれないし、恋人同士や夫婦かもしれない。風俗と客かもしれない。 けれど今の菅原のように、望まずひとりでそこにいる人間はいないのだろう。 「何でなんだよッ!!」 虚しい。 セックスしても埋まらない。しなくても埋まらない。誰かといたいのに誰もいない。 「くッ、、!!」 ただただ涙が溢れた。 どこにいても分からないのだ。 「ッ、、ゆ、きこ、さん、、」 寂しい。どうして自分はひとりなんだ。 頭を抱えてもベッドのふちに額をぶつけても意味がない。どこを傷つけても、今1番痛いのは胸のど真ん中にある心だ。 「たか、おみさ、っ、、孝臣さん、、」 1人は嫌だった。 あの乾いた匂いが蘇るようで。 誰もいない電気の付かない真っ暗な部屋に、また1人だけ残されて誰からも気にされない。 そんな過去が頭の中に迫り上がって来て、彼の心を掻き乱している。 「助けて、助けてえッ、、」 鼻水がダラダラと口の端まで落ちてきて、涙は絨毯に落ちて小さなシミを作っていた。 「助けて、」 叫ぶのに疲れると、今度はドッと冷静な頭がフル回転し始める。 『疲れませんか』 「、、疲れた、よ」 息ができない。 誰もいないソファや浴室のドアを眺める。どこにも人の影なんてなくて、あるのはひとり分の荷物とひとり分であってもこの部屋を満たし切っている虚しさだ。 「、、、」 『有紀』 頭の中で義人が自分の名前を呼んでいる。 「、、よ、しと」 その名前を呼ぶだけで、少しだけ何かが救われる。 どうして彼なのか、とまた考え始めていた。 『有紀』 菅原の頭の中だけでなら、義人は彼を見つめてくれる。 彼が人の事を想う細かな視線に胸が高鳴った事を覚えている。菅原の隣を歩いたときの気配りや、嫌味を言った事を気にも留めず心配そうに「疲れませんか?」と言われた事。彼は丁寧に人を見る人間だと思った。 そしてその視線を一身に受け、笑い返せる藤崎が羨ましくなった。 『誰かにもらえなかった愛情を、テキトーに藤崎で埋めようとしてるなら、やめて下さい』 そうやって守られる藤崎が妬ましくなった。 『今だけでもいいから死ぬ程幸せにしたくて、藤崎と真剣に付き合ってるんです』 そうやって義人に愛される藤崎が憎くなった。 「、、、俺だって、誰かの特別になりたい」 けれど、誰でもいい訳ではない。 「お前の、、お前の藤崎になりたい」 丁寧に愛して欲しい。 誠実に想って欲しい。 自分だけを見ていて欲しい。 元来の人間において当たり前のそれを、菅原と言う人間は今更ながらに欲しくなっていた。 「お前の特別になりたい」 あれだけ人を傷付け、裏切り、セックスがあれば生きていけると笑っていた男が、今はぼたぼたと溢れる涙を止められずにいる。 「苦しい、」 頭から消えない男の声で名前を呼ばれたかった。 絶対に自分の前からいなくならない人に、自分が好きになった人に、そばにいて欲しくなった。 こんな感情は初めてで、どうしたらいいのか彼には分からない。 けれど胸の内の嵐はもう抑えられない程大きく膨らんでしまっていた。 誰かと唯一想い合えるとはどんな感覚だろう、と必死に考えてみたが、彼に分かる筈がない。 「抱きたい」 結局、菅原はこの方法しか知らない。 学ぼうとしなかった彼には唯一知っているセックスしか頼りになる愛情表現がなかった。 (優しくするから、、) 菅原は義人に教えて欲しかった。 心と心を繋ぐには何が必要なのか。果たしてそれは自分に出来るのか。 けれど、義人には藤崎がいて、それ以外は必要としていない。 教えてと言っても、きっともう相手にしてもらえない。 「、、、」 藤崎が消えてくれたら、と菅原はカーテンのかかった窓を眺めながら考えた。 そうまで思い詰めているのだ。 胸にポッカリ空いた穴が、佐藤義人でしか埋まらないのだと自覚してしまったから。

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