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第33話「請う」

耳を疑った。 「なに、言ってるんですか」 すぐそこにある目を見上げている。 ダンッ!と、背中を押しつけている撮影室との境のドアに菅原が手をついた瞬間、義人はビクッと体を震わせた。 「それは肯定ってこと?」 「ち、違うッ!!」 手が震えている。 先程まで人の良い笑みを浮かべ、藤崎を呼びに行っていた筈の菅原はどこへ行ったのだろうか。 残酷な事に、義人の目の前にいる脅しを口にした男とあれは同一人物だった。 彼を壁際まで追い詰め、背後に逃がすまいと腕で身体を振る先を封じている。 義人を逃す気は、菅原にはまったくなかった。 「じゃあどうする?俺は別に黙っててやってもいいんだけど、君次第なんだよ」 ニコ、と美しい笑顔が見えた。 「、、、」 状況が飲み込めない。 本能で逃げてはいたが、冷静に考えると今の自分は何処にいるのだろうか。 「俺に、藤崎と別れろって言うんですか」 後手にドアに手を付き、義人は震えて崩れそうになる脚を支えている。 目の前の男の目的が分からない。 自分が追い詰められているが、この男は藤崎に惚れていた筈だ。 埃臭い部屋の中は窓ひとつないが、先程走り回ったときに舞い上がった埃が人工的な灯りに照らされてキラキラと天井近くから義人の視界まで降り注いでいる。 「結果的にはね。でも口約束でそれを誓うだけじゃ足りない。そんなものでこの部屋からは出さない」 義人は歯を食いしばった。 ここから藤崎に電話を掛けて別れを告げろと言うなら無理だ。電波が届かない。 死ねと言われても死ねる訳がない。 藤崎と距離を置けと言われても藤崎が義人を放って置く訳もなく、大学を辞めるにしても手続きにかかる時間が必要だ。 「わからないの?」 菅原の顔が義人に近づく。 「察しが悪いね、童貞くん」 「ッ!!」 スリ、と菅原の右手が義人の足の間を撫で上げる。 そのゆったりとねちっこい触り方に、ゾワッと全身の毛が逆立つのを感じた。 (や、ばい、、) 逃げろと直感したのはこの視線のせいだ。 舐めるように全身を見て唇を見つめ、また義人の目を見つめ返してくる。 性欲、と言うものが込められた視線がこんなに気持ち悪いのだと、久々に奥歯がカチ、と言う程に震えた。 (犯される) 拒絶ができない。 身体が強張って動かないのだ。 けれど頭だけは冷静に状況を理解した。 藤崎ではない。 狙われていたのは、自分だ。 「はあ、」 「ッう、」 熱っぽい吐息を首筋に絡みつかせ、菅原は義人の首元に顔を埋めた。 「す、、菅原、さん、やめて下さい」 何度も何度も義人の脚の間を、まるで形を確かめるように菅原の手が弄っている。 「可愛い」 「ぅわッ、」 ベロ、と首筋に舌を這わされ、あまりの気持ちの悪さに菅原の胸を押し返す。 やっと身体が動いた、と言う安心感と共に、相手の体が全く動かない事に気がついて目を見開く。 「馬鹿だね。俺は男だよ?」 「ッく、!!」 ガッとズボンの上から股間を鷲掴みにされ、握り潰す勢いで力が込められる。 痛みが走って義人が前屈みになると、菅原は義人のそこを掴んだまま右手で優しく彼の背中を摩った。 「大丈夫。逃がさないから」 その声に、ブルッと悪寒が背筋の下から一気に頭の先まで駆け抜けていく。 この男があのケースを両手で持っていたのはただの演技だ。細かったとしても、実際の菅原は力がかなり強い。 「だって義人はいやだものね?」 優しい声は義人の脳に響く。 ただただ逃げ出したかった。 「藤崎久遠の人生、ぶち壊しにしたくないだろ?」 「っあ、」 脳裏に浮かぶふわっとした優しい笑顔。 自分にしか見せないあどけなさを、義人は何より愛していた。 「ふ、、じ、さき、」 愛しているのだ。 誰よりも幸せにしたい。 初めて恋をした相手。初めてたくさんの幸せを義人にくれた相手。 目の前のぼやけた視界に蘇ってくるのは、最愛の相手と過ごしたキラキラと眩しい毎日だった。 それが走馬灯の様に頭の中を駆け巡っていく。 「ふじ、さき、、」 掠れた声が名前を呼ぶ。 彼に聞こえていないのだとしても、義人の正気を保たせるにはその名前が必要だった。 彼のこれからを、自分が壊す訳にはいかない。藤崎久遠の人生の汚点になりたくない。 もし自分との恋が終わり、女の子と恋をする日が来たとしたら、結婚や子供が生まれる藤崎の未来を、義人と付き合ったと言う事実がぶち壊しにするくらいなら、ここで死んでしまいたかった。 「、、藤崎」 ここで、この男に抱かれて、何もかもなかった事にできるなら。 義人との今が藤崎の枷にならず、男と付き合ったと言う事実を知って顔を歪める人達にバレずに済むならそれは、藤崎にとっての「最善」になる。 「、、はあ、、はあ、、」 呼吸が苦しくなった。 「はあっ、はあ、」 もしバレたらどうなるのだろう。 義人の家はまず終わる。 藤崎と離されるのはもちろん、もしかしたら一生家から出してもらえない。家族の恥として部屋に閉じ込められ、自由を奪われても文句は言えない。 それをやりかねない父親の元に生まれ、今までその人に反抗して生きて来た。そして、あの父親が認める訳も受け入れる訳もない、男と付き合っていると言う事実が自分にはある。 (どうしよう、、) 藤崎の家族だって分からない。こんな男と、と怒る両親かもしれない。もし受け入れてくれていたとしても、義人の家にバレれば父親が何を言い出すか分からない。 藤崎にハメられただの、騙されただの、病気を移されただの。 裁判を起こすと半狂乱で騒いだら、義人に父親を止める術はないのだ。 「はあッ、、っう、はあッはあッ」 過呼吸とまではいかないけれど、義人の胸は苦しくて、肺はやたらと酸素を求めた。 不規則に胸が膨れては萎む。ぼろ、と溢れた涙が頬を伝い、顎から埃の積もった床へと落ちて行く。 「や、、やめて、下さい」 か細い声は、静寂しかないこの部屋の、2人の間によく響いた。 「何を」 自分から望め、と菅原は義人の背中を撫でながら彼を見下ろす。 どこを見ているのか。 前屈みになって菅原にもたれている体勢では、義人の顔は菅原からは見えなかった。 「何をやめて欲しいの」 けれど聞こえてくる鼻を啜る音や息を飲む喉の音に、彼はニヤ、と口角を吊り上げて笑んだ。 「間違えた。どうして欲しいの?」 言い直した質問に、また、義人が唾を飲む。 (言いたくない) どうしてこんなに弱いのか。 もう一度だけ、身体をグッと前に倒し、脚元を力一杯に蹴ったが、すぐさま菅原が全体重を掛けて義人の身体を押し返してくる。 「なに、今更抵抗するの?」 楽しそうな声は変わらなかった。 「じゃあ言いふらしに行ってくる」 「ッ!!」 瞬時に、身体を離そうとして義人を解放した菅原の胸ぐらを掴む。 面と向かって睨み上げた顔には、嫌味な笑顔が張り付いていた。 「やっとこっち向いた」 「うっ、、、っく、」 ゴク、と喉が鳴る。 「泣いたの?可哀想に。どうしてそんなに苦しむの」 菅原を掴む手が震えた。 ここでどんなにぐちゃぐちゃにコイツを殴っても、殺しても、結局自分の全てが藤崎に繋がってしまう。 「ッ、、」 悲しませたくない。 苦しめたくない。 藤崎に迷惑を掛けない事しか、残された道はない。 「義人、言って」 涙が流れる暖かさばかり、頬に感じた。 「どうして欲しいの?」 徐々に身体から力が抜けて行く。 口の中に砂でも詰められたように、気持ちの悪い感覚がした。 ダラン、と力をなくした腕が下に落ちる。 俯いて棒立ちする義人の頬に、菅原はゆらりと手を這わせて両手で包み込み、ゆっくりと自分を見上げさせた。 曇ってしまった美しい黒い瞳は濡れていて、悲しみに揺らいで菅原の姿を反射している。 「っ、、て、、い」 「聞こえない」 微かに動いた唇は、悔しさと恥ずかしさ、悲しさで震えていた。 「だ、、抱いて、下さい」 ハッキリとそれを口にすると、義人の中の何かが、バツンと弾けて壊れてしまった。

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