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第38話「混乱」

鍵が開けられた瞬間、ドアの取っ手を回して自分の方へ引き、目の前に現れた菅原の顔面めがけて藤崎は拳を振るった。 ゴッ、と言う鈍い音がして、床に寝そべっている義人の隣に菅原の細い身体が叩きつけられる。 「佐藤くん!!」 「、、?」 どこかぼんやりとしていて意識がハッキリしていない義人に、部屋に入るなり藤崎が駆け寄って菅原との間に入り彼の元へしゃがみ込んだ。 (、、藤崎だ) 義人はそばに来た彼を歪んだ視界で捉えると、何となくその輪郭が藤崎である事は理解した。 「佐藤くん、、こんな、何で、」 膝をベルトで締め上げられ、腕も身体の下で拘束されている義人の身体には、菅原がやったのであろうキスマークの鬱血した痕や強く噛みつかれた歯形が至る所に散りばめられていた。 「こ、の、、」 ズボンと一緒に引き下ろされた下着と露わになった性器。 それが目に入ると、菅原に一撃喰らわせた事で少し冷静さを取り戻していた筈の藤崎の脳に再度殺意が芽生え、それは急激に大きく膨らんで激情となった。 「このクソ野郎ッッ!!」 「久遠くん!!」 大城の制止の声も聞かず、藤崎は隣に倒れている菅原に馬乗りになって胸ぐらを掴み、振るえる限りの力を込めて、握りしめた左の拳で彼の顔を殴り始めた。 「久遠やめろ!!」 1番後ろ、ドアを出てすぐそこの階段の中腹辺りにいた滝野が階段を駆け上がり、大城の身体を退かして準備室に入ると藤崎の左手を掴み、後ろから彼の脇の下へ腕を差し込んで身体を持ち上げる。 「離せ滝野!!殺す、コイツだけは殺すッ!!」 血走った目は菅原しか映していない。 「ダメだ!今は義人のこと考えろ!!」 「うるせえ離せ!!この野郎、この野郎ッ!ブッ殺してやる!!」 藤崎の下から抜け出し、菅原は床を這いずりながら彼らから距離をあける。 滝野が必死に抑えるが、同じくらいの体付きをしている相手が理性を失って暴れ回るのを止めるのは中々に難しかった。何度も腕を解かれそうになりながら、筋肉で重たい藤崎の身体を懸命に持ち上げている。 大城は着ていたジャケットを脱ぐと、悲惨な姿になっている義人にそれを掛け、捲れ上がっていたTシャツの裾を戻し、身体を隠してやった。 「義人くん?意識はあるね?」 落ち着いた大城の声にも義人は少ししか反応を示さない。 数個歳下の男の子に対して、菅原がここまでしていると予想していなかった大城は義人を直視するのが相当堪えた。 あまりにも惨い。 「?、、?」 義人の虚な目は焦点が定まらず、ときたま真っ直ぐ大城を見上げるのだが、またすぐに空中を見つめて泳いでしまう。 「久遠くん、そんなことしてる場合じゃない!この子意識が朦朧としてる、君が呼び掛けなさい!!」 「ッ、、佐藤くん?、佐藤くんッ!!」 菅原を向いていた目が義人を捉える。 起き上がらず目を泳がせている義人に気が付いた藤崎は、もがいて滝野から逃れるとやっと義人の隣に座り込んだ。 「佐藤くん、大丈夫だよ、俺がいるから!」 慌てて義人の膝を締め上げているベルトを外すと、力のこもらない脚はガクンと床に落ちる。 藤崎は義人の頬に触れながらまず自分を落ち着かせた。 夏だと言うのに冷たくなった義人の頬を何度も撫で、口から漏れ出ている唾液を服の裾で拭い、何度も呼び掛けてこちらを向かせる。 「、、ふじ、さき?」 「佐藤くん、分かる?俺だよ。もう大丈夫だからね」 「、、、藤崎?」 未だにぼやける視界の中で、義人は確かめるように何度も藤崎を呼んだ。 そうしないとまたすぐに藤崎が菅原に入れ替わってしまいそうで恐ろしく思ったのだ。 「ここにいるよ。滝野、その辺にバンガチかカッターないか」 「お前はもう落ち着いたか?」 「うん、ごめん。俺は落ち着いた。ありがとう」 藤崎がしっかりと自分の目を見て話す事を確認すると、義人の様子を見ていた滝野は教室内の棚から古く錆びついたカッターを見つけ、ガチガチと刃を出して1番錆の少ない部分まで折った。 「久遠、義人のことちゃんと見ててやれ。俺が切る。身体、そっちに倒して」 刃を確認しながら義人のそばにしゃがみ込み、滝野は藤崎を見る。 「ん。佐藤くん、滝野だから大丈夫だからね」 藤崎が優しく触れ、グッと義人の左肩を持ち上げて横を向かせると、後ろで交差させられている腕に巻き付いたインシュロックを見つけ、滝野がカッターで何度かそれを傷つけ、ブツっと切り落とした。 拘束の取れた義人の両腕には、インシュロックの端が擦れてついた赤い擦り傷ともがいた拍子にできた切り傷があり、ほんの少しだが出血している。 「血が出てる」 「えっ、」 「あ、そんなじゃない。絆創膏で済むから落ち着け、久遠」 「ん、分かった」 「義人、おい、義人。大丈夫か?どっか痛むか?」 一瞬不安げに、そしてまた人を殺しそうな表情をした藤崎を落ち着けると、滝野も義人に呼びかける。 義人の焦点はやっと上から自分を覗き込んでいる藤崎の目を見つめ返したところだった。 「あ、、」 「佐藤くん、良かった、気が付いた?」 藤崎は義人と目が合った事でホッとした表情を浮かべる。 けれど、目の前のそれが本物の藤崎だと頭が理解した瞬間、義人は自由になった腕を滑られせながら後ろに這いずり、見開かれた目からぼたぼたと涙をこぼし始めた。 「佐藤くん?」 「あ、嫌だ、、いやだ、いやだいやだいやだッ」 「待って、佐藤くん落ち着いて、」 「いやだいやだいやだいやだいやだッッ!!」 自分に触れようとする藤崎の手を払い除け、義人はドアのある部屋の隅まで逃げる。 「佐藤くん!!」 パニックになっている。 何が原因かは明らかだが、意識がハッキリとした義人にいくら手を伸ばしても力加減なしに振り回される彼の腕に阻まれ、触れることができない。 「義人落ち着け!久遠だよ、大丈夫だよ!!」 慌てて滝野も叫んだが彼の耳には届いておらず、過呼吸になりながらも涙を流して藤崎の腕から逃れようと暴れ続けた。 「義人ッッ!!」 強引に義人の両腕を掴み、藤崎がグッと身体を近づける。一層強くもがく義人の身体を勢いに任せ、強引に力を強めて抱きしめた。 「やめろ、嫌だ!!」 首筋を、もがく義人の手の爪が引っ掻いていく。 一瞬痛みで表情を歪ませるが、藤崎はそれでも義人を放さず、ただ強く抱きしめて首筋に顔を埋めた。 「いやだッ、いやだ、いやッ、、い、」 義人は腕の中で暴れながら、ブルブルと震えている。 乱暴にされた痕跡の残る身体が痛々しくて、藤崎はグッと目を閉じて腕の力を強める。 「いやだッ、、いやだ、やめて、」 「義人、大丈夫。俺がいるよ。俺だよ。ちゃんと見て」 耳元で聞こえる藤崎の声に、義人はやっと力いっぱいに振り回していた腕を止めた。 「あ、、、あ、ダメ、だ、」 (俺は藤崎を裏切ったのに) 藤崎の顔を見た瞬間、義人は菅原にされた事など一切思い出さなかった。 何をされたかではない。 自分が菅原に何を許したかが頭の中で思い出されて、それが耐えられない程の罪悪感と嫌悪感に変わってしまったのだ。 汚れた身体を藤崎に触られたくなかった。 汚れた自分を藤崎に見られたくなかった。 何をどう裏切ったのかを藤崎に知られて、拒絶され、1人になるのが怖くて暴れていた。 「ご、め、、」 自分から裏切った、と何度も頭に声が響くのだ。 「違う。義人が悪いんじゃない」 「違う、俺、、俺、ごめん」 ずっと泣いていて情けないなあ、と思いながら、それでもどうしようもできなくて、藤崎の身体を抱きしめ返してしまった。 「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいっ」 触れてはいけないと思いつつも、良く知っている藤崎の体温や匂いを求めて縋り付いて抱きつき、目の前にいる自分を抱きしめる人間が本当に藤崎なのだと必死に感じている。 弱り切った義人には今それ以外何もできなかった。 未だに震える彼の身体や心を落ち着かせられるのは藤崎しかいないのだ。 「違うよ、分かってる。違うんだよ」 藤崎には理解出来ていた。 義人が望んだ訳ではない事も、それでも義人は全て自分のせいにして自分を傷つけようとする事も。 「違うんだよ、義人。ちゃんと考えて、分かって。義人のせいじゃないんだよ」 背中をさすって落ち着かせると、義人はただ泣くだけで何も言わなくなった。 その様子を滝野は見つめ、それから、手に持ったカッターを握り締めながら後ろで始まった会話に視線を投げた。 「自分が何をしたか分かってるの、君は」 大城善晴の怒りに満ちた声を、滝野は初めて聞いている。 恐ろしい声に唾を飲んだ。 彼は元から温厚で、あの光緒の父親とは思えない程良く笑い、穏やかな雰囲気で場を和ませる人だ。 こんなに冷たく低い声は知らない。 「、、、」 彼が見下ろしている先の菅原は、床に這いつくばったまま大城を見上げもせず黙り込み、動かないでいた。 「質問をしているんだよ、有紀くん」 「、、、」 気圧されているのだろうかと思ったが、そうではない。 藤崎の登場やイレギュラーな大城の参加に対して、彼は運命を呪っていた。 (全部、親父とお袋のせいだ) そう思いながら両手を握りしめ、奥歯を噛み締め、ギチ、と歯軋りの音を立てる。 悔しかった。 あと少しで自分のものになる筈だった義人が藤崎に抱きしめられ、安心したようにわんわん泣いている光景が目に入って。 助手はしているがあまり関係のない大城に大人ぶった説教をされているのが。 (全部お前らのせいだ。お前らが俺を愛さなかったから、1人にしたから、そのせいで俺は誰にも愛されない!!) ダンッ!と、菅原が床を殴る。 その音に義人が怯えて身体を震わせ、藤崎は庇うようにキツく彼を抱きしめた。 菅原にぶたれた義人の頬は、ほんの少し赤く腫れている。 「、、、有紀」 大城はしゃがみ込み、菅原の肩に手を置いた。 「あ、、?」 怒った声ではなかった。 呆れ返った感情のない声で名前を呼ばれ、菅原はムカついて顔を上げた。 そして、息を飲んだ。 「大人をあまり舐めるなよ」 その低い声は腹に響き、背筋をゾッと凍らせる。 肩に置かれた手は骨を砕く勢いで強くそこを掴み、痛みで表情が歪んだ。 大城の失望と苛立ちが混ざった視線はおぞましく、菅原の手を震えさせた。 (怖い、) 目を背ける事ができない。 あまりにも普段の大城と違う雰囲気と威圧感に、菅原は下唇を痛い程噛んでその目を見つめ返していた。 「もう庇い疲れた。今日でここを辞めてもらう」 「っ、、」 「それから、今までのことを全部。久遠くんや周りの子達が知っている限りのこと全て、孝臣に報告する」 「ッえ、」 縋るような目をした菅原に、大城は容赦なくそう告げた。

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