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第40話「自覚」

無言の電車内でも藤崎は義人の手を握っていた。義人はそれを嫌がらずに握り返し、車内を見回して大学生らしき年齢の人間があまりいない事を確認する。 藤崎は周りから見えないように別の車両との連結部分に近い3人掛けの席の真ん中に座り、壁側の義人を隠すようにしながら彼に寄りかかって手を繋いでいた。 相変わらず車内は空いてはいるが、大学の近くにある高校の制服を着た生徒の姿が目立つ。 「降りるよ」 「ん」 ぼーっと足を眺めていた義人の耳元で藤崎の声がする。 改札を出て繁華街を抜け、暗い帰り道を駅から家まで黙って2人で歩いた。 「、、、?」 ポツンとある赤いポストが見えた。 駅から家までの丁度中間辺りにあるそれを過ぎると、ふと、義人の右手に何かが触れる。 暖かい感触に自分の手元を見下ろすと、藤崎の左手が指を掴んでいた。 義人はその手にゆっくりと自分の指を絡め、無言のまま2人は手を繋いで人のいない道を歩いて行った。 (夕飯、、後でコンビニ行けばいいか) ドッと疲れた藤崎は夜道から空を見上げ、曇った一面を眺めて肩から力を抜いた。 「ただいま」 「、、っう、」 ドアを開けたのは藤崎で、義人は背中を押されて部屋に入る。 入った次の瞬間に安心感からか吐き気が込み上げ、トイレに駆け込んで胃の中のものをほとんど全部吐き出してしまった。 「ゲホッ、ぅ、ゲホッゲホッ」 ダラダラと唾液が出てきたが、それも嘔吐物の匂いがして全部口から便器の中へ垂らす。 トイレットペーパーで鼻をかみ、迫り上がったものをとにかく全て身体から出していった。 今更ながら菅原にされた事の記憶が蘇り、気持ちの悪さが胸に溢れかえって耐えられなくなってしまった。 不快感は治らず、義人は便座に腕をついてそのままえずきが落ち着くまでトイレの床に座り込んだ。 「はあっ、、ッ、う、ゲホッ、、はあ」 「大丈夫?」 玄関の鍵を締め、急いで靴を脱いだ藤崎は義人の後ろに座り込み、背中をさする。 「ゆっくりでいいから全部出しな」 うなじの辺りにトン、と藤崎が頭をつけて義人の匂いを吸って、またゆっくりと息を吐いた。 しばらくそうやってくっついたまま、義人が落ち着くまでひたすら背中を撫でてくれる。 「藤崎、水、」 「洗面所にコップ持ってきたから向こう行こう。落ち着いた?立てる?」 「ん、」 義人の背中を支えながらトイレの水を流し、ドアを開けたまま洗面所に入ってコップに水を注ぐ。 「そこ掴んでていいよ、飲ませるから」 洗面台に両手をついて身体を支えていた義人は、藤崎が持ったままそのコップから水を飲ませてもらい、身をかがめて口を濯ぎ、ベッと吐き出した。 「もう一回」 「ん、ぅ」 もう一度それを繰り返すと、やっと嘔吐物の匂いが消え、大きく息を吸い込む事ができた。 「ん、、藤崎」 「ん?」 嘔吐して強張った身体は未だに微かに震えている。 藤崎が中の水を流して歯ブラシの置いてある棚にコップを置いたのを見届けると、義人はその震える手を彼に伸ばして服の布を掴んだ。 「え、、?」 洗面台から手を離し、フラついて藤崎の胸に寄り掛かると、彼の腰に腕を回して抱きつく。 「、、佐藤くん?」 ぽふ、と首筋に義人の顔が埋まり、藤崎はくすぐったさに目を細めて細い身体を抱きしめ返した。 「お願い」 「、、、」 「佐藤くんの口で言って。聞きたい」 お互いにまだ不安だった。 義人は落ち着いているが時折り先程までの菅原の感触が思い出されて身体をビクつかせている。 藤崎は義人の身体についた跡や彼を見つけたときの光景が脳裏に蘇ると痛い程拳を握り締め、ただひたすら記憶が消えるのを待った。 そんな事を大学から家までの道で繰り返し、お互いに余計に疲弊していた。 「俺を、安心させて」 見上げた先の、茶色の瞳が揺れている。 日本人離れしたその色を義人はこの1年ずっと愛して不安にさせずにいたのに、今は不安と悲しさでゆらゆらとして見えた。 (こんな顔させたかったんじゃない) 藤崎を守りたかっただけなのに。 自分は選択を間違えたのだろうと思うと、また胸が苦しくなった。 どうしてこうも上手くいかないのだろう。 どうしてこうも、藤崎を大切にするのは苦手なのだろう。 「久遠と、セックスしたい」 ただただ触れたいと言う想いが溢れて、義人の頬を温かい涙がつたっていくと、自然と口からそうこぼした。 お互いがお互いに、何が不安でどうしたらそれがなくなるのかを、今、必死に探している。 「俺が、久遠のだってわからせて」 植え付けられた記憶や残された跡を、義人は藤崎に全部洗い流してほしかった。 「いいよ」 涙を拭う藤崎の手は、義人が壊れないように優しく優しく彼に触れて、ちゅ、と優しいキスを唇に落としていく。 それだけで義人の心は震えて、嬉しくて、また泣いていた。 「ごめんね、でも、ベッドはやめよう」 「え?」 「義人の体、洗わないと」 「あ、」 少し困ったような笑顔に見下ろされてそう言われる。 手を引かれながら、湯沸かし器のスイッチを入れ、風呂場の脱衣所に戻って藤崎に服を脱がされる。 (やっぱり、嫌だよな) 義人の心を苦しめているのは、義人自身が他人に自分の身体を許した事だ。 それはれっきとした藤崎への裏切りである。 触れられたくないと言われても仕方のない事で、別れたいと言われても受け入れるしかないのだ。 「久遠、あの」 けれど言わなければならないと思った。 黙っているのも苦しくて、藤崎を欺いているようで耐えられない。 心の苦しさを吐き出すように、義人は自分のズボンに手を掛けた藤崎を止める。 「、、なに?」 不穏な空気を感じ取った藤崎は不安な顔で義人を見つめた。 「っ、、あの、」 罪悪感と嫌悪感がグツグツと腹の底で煮えている。 大学で藤崎の顔を見た瞬間から、義人の心はずっと追い込まれ続けていた。 「ごめん」 その言葉は重たく響いて、余計に自分を追い込んでいく。 「ん?」 「俺、あの、、」 自分は何をしたんだろう。 守りたい守りたいと言っているくせに、自分では上手く立ち回れないところに追い込まれて結局は藤崎を悲しませてしまった。 手を繋ぎたいと言ったときも、それを拒絶したときも、自分を貫いて藤崎を守った気になった先程も、一体いつどうやって彼を守ったと胸を張れるのだろうか。 「あの、、、」 義人の手が震えている。 グッと拳を握って俯き、下唇を噛みながらも少しずつでも藤崎に伝えようと口を開いて、また怖くなって口を閉じる。 (菅原さんに抱いてくださいって、言ったのは俺だ) ズクン、ズクン、と胸が痛い。 耳の後ろで轟々と言う大きな音が響いていて、視界が滲むような感覚に襲われた。

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