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第54話「挨拶」
(久遠の、お父さんと、お母さん)
一瞬の沈黙の後、義人の胸はかつてない程に激しく鼓動し始めた。
緊張や焦りではなく、嬉しくて胸がいっぱいで苦しくなっている。
「義人、おいで」
ゆっくり手を引かれ、震える脚で歩いた。
全身が強張っているけれど、不思議と怖くはない。
近くまで寄ると、もっとニコリと笑ってくれる藤崎の両親。
店内には小さくオペラがかかっているけれど義人の耳には聞こえおらず、ドクドクと激しい血流が耳の後ろに響いて周囲の音を遮っていた。
「久しぶり。もう分かってるだろうけど、ずっと会わせたかったから連れて来たよ」
藤崎が義人の方を向くと、一度グッと唾を飲み込んで、彼はゆっくり口を開く。
「初めまして。佐藤、義人です」
そのときばかりは手が離されて、義人は3人に向かってお辞儀をした。
喉がヒュッとなりそうになるのを我慢して大理石の床を数秒見つめ、徐々に身体を起こして元の位置に戻ると、そこには先程より少し安堵したような表情をした藤崎の両親がいた。
「はじめまして。久遠と里音の母の、愛生(あき)です」
「父親の、レオンです。はじめまして、義人くん」
「そして、我が家の末っ子、至恩(しおん)ちゃんでーす。至恩こんにちはは?」
「?」
「義人くんに、こんにちは。ね?」
もしかしたら、5歳よりも小さいのかもしれない。至恩と呼ばれた少女はあどけない表情でこちらを見上げてくれる。
「突然いるっていうから驚いちゃった!義人くん、写真より綺麗ね〜!」
「え?」
「愛生ちゃんあんま寄らないで」
「あらあら〜、久遠もお熱ね〜」
思っていたよりもふわふわと喋る藤崎家の母・愛生に対して義人は戸惑いながら、義人に興味津々な至恩が伸ばしてきている手に遠慮気味に触れて応える。
「ありがとう。こんにちは、至恩ちゃん」
恥ずかしがっているのか、至恩はちょっとだけ義人の手が自分の手に触れるとパッと引っ込めて愛生の首元に抱きついてしまった。
「あら、しいちゃんも義人くん好きになったの?格好いいものね〜」
「え、やめて本当に。やめて?」
「はいはい。ちゃんと家族全員揃うの久々なんだから不機嫌にならないで、久遠」
義人が来る事を藤崎の両親も事前まで知らされていなかったらしく、お互いに少しだけ緊張している。
ニコニコして黙り込んでしまっているレオンとは異なり、愛生はすぐに久遠と同じような顔でふわふわと優しく笑って義人を歓迎してくれた。
「あの、すみません。家族団らんを邪魔してしまって」
「何言ってるの?義人くんはもううちの家族なんだから、いなきゃ困るわよ!」
「あ、ありがとうございます」
戸惑いながら返事を返すと、ポン、と頭に手が乗った。
「僕の料理、食べてって」
低く落ち着いた声。
大城や西宮と違い、自分を「受け入れている」と言う笑みが見えて、義人は握りしめていた手を開き、力を抜いた。
「はい、いただいていきます」
笑顔で返すと、レオンの手がわしわしと頭を撫でた。
「父親」と言う存在にそんな事をされるのが久々で、義人は少し恥ずかしそうに口籠る。
「レオンやーめーて」
その手をベリっと藤崎が離し、面白そうに笑うレオンに睨みをきかせる。
「久遠がそんなになるのも珍しいなあ」
アッハッハッ、と笑う顔は外国人そのものだ。
綺麗なのに渋みの深い顔は堀が深く整っている。
愛生は至恩を滝野の元まで連れて行き、ひょいと膝の上に乗せて「任せるね〜」と声を掛けるとレオンと一緒に厨房へ入って行ってしまった。
「見てるこっちが緊張した!」
久遠が里音の隣に座り、義人も続いてソファに腰掛ける。
くすんだ深い青色のソファは生地はベルベットで滑らかで、鈍く照明を反射していて手触りも座り心地も良い。
沈むように体重を預けると、義人はふー、と緊張の糸が切れたようで深く息を吐いた。
「佐藤、大丈夫か?」
「えっ?」
目の前の同じ色のソファに腰掛けていた遠藤が、彼女に似合わない驚いた顔をしている。
目が合っているのに合っていない。
義人は自分の視界が歪んでいる事に気がついた。
「義人?」
「あ、あれ?」
頬を温かい感触が滑り落ちていく。
慌てて触れると指先が濡れて、その手を掴んだ藤崎に顔を覗き込まれた。
「どうしたの、何で泣いてるの?」
いつの間にかボロボロと泣き出していた義人を見つめて、藤崎は困ったように笑って左手の指で涙を拭っていく。
その笑みに尚更ホッとしたのか、義人は顔を歪めて涙を流した。
「ごめん、ホッとしたら、急に」
「いいよ、ごめんね。俺が急に連れて来たから」
「違う、それは嬉しかったんだ」
藤崎の前に座っている入山がさっとティッシュを義人に手渡すと、彼はそれを受け取ってグッと涙を拭いた。
「ありがとう」
「いいっていいって」
馬鹿だなあ、と入山も何処か嬉しそうに笑ってくれる。
「普通にしてろよ、義人」
低く落ち着いた声で、光緒は携帯電話の画面に視線を落としたままボソリと言った。
「え?」と、久々に登場し、完全に空気状態になっていた光緒の声に驚いた面々は彼の方を向く。義人もキョトンとしていた。
入山、遠藤、和久井に関しては光緒は初対面である。
「ここん家の家族は男同士とか全然気にしねえから」
相変わらずの無愛想な無表情が顔を上げて義人を眺める。
泣いていた義人はフッ、と吹き出して笑い、目尻に溜まっていた最後の涙を拭き取った。
「光緒が言うなら本当だな」
「え、俺は!?」
「俺も前に大丈夫だぞって言ったことなかったっけ!?」
藤崎と滝野が声を荒げ、何故かそのまま2人で言い合いを始めている。
周りはうるさいだの何だのと茶々を入れ、最終的には滝野が至恩に言わせた「静かにしてくださいっ」と言う可愛らしい声でその場は静まった。
「しいちゃん、お兄ちゃんだっこで向こう行こうか」
料理が来るまでの間に初対面で集まったメンバーを紹介し合う。
お互い話を聞いていた事もあり、光緒と入山、遠藤、和久井は何となくだが打ち解け合い、それぞれの話や幼馴染み達の昔話など色んな話題に花が咲いた。
何度か会っている女子達は愛犬やファッション、美容の話までし始め、男子はゲームの話し等をした。
「あ、そうだ、色々言い忘れてた」
藤崎が左手の拳を右の手のひらにポン、と落とすと、全員がそちらを向く。
「昨日色々あって皆んなに迷惑かけてごめん。俺が騒いじゃったから」
そこから、至恩がいなくなった事もあり、藤崎はゆっくりと菅原との問題解決までの話をした。
和久井には入山が説明し、そこから他のメンバーが聞いていなかった部分と今日の話し合い、2人で決めた事、菅原が助手を辞める事まで全てを話し終える。
それぞれ飲んでいた飲み物が空になったところで、藤崎が息をついた。
「ま、当然か」
「んー、でも正直、もう少し早く周りを頼ってほしいっていうのはあったなあ」
滝野の言葉に、彼の斜め前に座っている遠藤はコク、と頷いた。
「それも2人で話して、だいぶ反省してる」
藤崎は「ごめんな」と滝野にまたひと言言った。
いつものふざけた2人ではなく、こう言う時大人びた顔になる滝野と、本当に申し訳なさそうな少し弱った表情をした藤崎が見つめ合っている。
「何度も言う気はないけどさ、もう次からは無理すんなよ」
自分の言葉や周りの言葉があまり藤崎の耳に届かない事は重々承知しているが、今回の件を終えて、滝野は最後にもう一度だけキツく言った。
「ん。ありがとうな」
「うわー!!久遠ちゃんがありがとうって!聞いた?聞いてた!?光緒!!」
「あ、悪い、ケータイ見てた」
「聞いとけよー!!」
そこからはまたふざけ合いで、いつも通りの雰囲気に戻った。
しばらくして運ばれてきた料理はサラダやパスタ、ピザと大盛りで揃っている。
開けられたワインや他のアルコール類、ソフトドリンクも飲みながら、大学生達のパーティーが始まった。
「でねー!今度和久井の演奏会あるから一緒にいこーぜ!」
「えー!?デビュー!?」
「何のだよ!違う違う、大学主催のやつがあって、」
酔っ払う事自体は珍しくはないが、酔ったまま和久井とずっと手を繋いでいる入山は初めて見た。
義人と遠藤は面白がってポーズを要求し、何枚も携帯電話に写真を保存していく。
料理を作り終わり、途中から参加してきたレオン、愛生、至恩も入れて、店の中のその席は明かりがついたように明るい笑い声が響いていた。
(ああ、よかった)
藤崎の両親に対して後ろめたさを感じていた義人は、少しだけ肩の荷が下りたような気分だった。
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