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この想いは蜜よりも甘く2 すべてがゼロになる日(本編試し読み)

(焦るな、落ち着け。月末まで、まだ日数と時間はある――)  一泊二日で行った新婚旅行の予定を切り上げ、旅行の二日目の午後から仕事をはじめた榊。和臣には疲れていないかと心配させてしまったが、いつもの休日よりも充実していたので、そこまで疲労感がなかった。  榊はつけ慣れない左手薬指の指輪に意味なく触れながら、パソコンのモニターに視線を飛ばす。 『指輪は見える形でしばりつけたいっていう、独占欲の表れなんだけどさ』  照れ臭そうにもじもじして告げられた和臣の言葉を不意に思い出し、瞬間的に頬の緊張が緩んでしまった。慌てて奥歯をかみしめ、なんでもないふうを装う。  丸一日休んだ分を取り戻すべく、いつも以上に仕事に励まなければならないというのに、指輪に触れるとつい、新婚旅行の出来事がフラッシュバックした。  指輪がはめられていることに慣れてしまえば余計なことにとらわれず、集中して仕事に打ち込めることを頭でわかってはいたが、いつも以上にピンク色に染まっている心が、榊自身をふわふわと浮つかせた。  気合を入れ直そうと、頭を横に何度も振る。本日何度目の行動だろうかと考えながら、デスクに置かれた財務諸表に視線を飛ばした。  財務諸表とは各企業の実績や財務状況をまとめた資料のことで、投資家にとっては自分が投資している会社の業績を見ることができる重要な資料であり、投資判断の材料にもなる書類なので、榊も仕事でよく使用する書類だった。  目をつけていた会社の業績が思ったよりも芳しくないことを、売上の数字から読み取っている最中に、スーツのポケットに入ったままのスマホが、バイブで着信を知らせた。  お客様からの電話だと思って、立てかけてあった分厚いファイルを机の上に広げつつ、空いた手でポケットからスマホを取り出してディスプレイを確認する。  そこにはめったにかかってくることのない、和臣の会社の名前が表示されていた。スマホを自宅に置き忘れたときにかかってきたことは何度かあったが、かけてくる時間帯はいつも16時以降だったので、不審に思いながら画面をタップし、耳に押し当てた。 「はい、榊です」  現在の時刻は14時26分――榊の真似をして出勤した和臣に新婚旅行の疲れが出て、体調が悪くなったという知らせを、会社の誰かに頼んだ可能性があるなと予測した。 「もしもし、株式会社池上木材工業の桜庭と申します。高木くんのご家族の方でしょうか?」 「はい、そうです」  電話の向こう側の切羽詰まった感じの喋り方に、榊の心が一気に波立った。そのせいで自己紹介する言葉を奪われただけじゃなく、背中に嫌な汗をかく。 「高木くんが仕事中に事故に遭いまして、市内の大学病院に搬送されました。事故の状況はですね――」  焦りながらも丁寧にそのときのことを語っていく桜庭のセリフが、榊の耳にまったく入ってこない。会社側としては誠意を示そうと説明をしているだろうが、そんなことはどうでもよかった。 「か、和臣の怪我の具合はどうなんですか? かなりひどい状態なんでしょうか?」  スマホを握りしめる、榊の手の力が増していく。背中にかいていた汗が額にも滲んできたが、拭う余裕なんてなかった。 「それはですね、見た目の外傷のぐ」 「見た目の外傷って、そんなにひどいものなのでしょうか?」 「落ち着いてください、榊さん。高木くんは大丈夫ですから」  事故の説明を止めただけじゃなく、外傷の説明をしかけた桜庭の言葉を遮って口を開いた、失礼な態度をとる榊を宥めるように声をかけられてしまった。  それでも和臣の容体が心配で気が動転し、ふたたび同じ言葉を告げそうになったことにハッとする。 「失礼いたしました……。和臣が怪我をしたということに驚いてしまって」  榊は目をつぶり、深呼吸を数回繰り返して心を落ち着かせた。まぶたの裏に映り込んだ和臣の笑顔に、少しだけ癒される。 『僕は大丈夫だから、そんなに心配しないでね』  そんなセリフを言いながら笑いかけてくるほほ笑みは、今の榊にとって精神安定剤にもなった。 「ご家族ならば当然のことでしょう。心中お察しします」 「お心遣い痛み入ります……」 「早速ですが高木くんのことについて、状況をあらためて説明しますね」  落ち着くことができた榊の様子を悟って話を続ける桜庭に、内心感謝した。和臣が会社の話をする上で、必ずといっていいほど出てくる上司の名前だからこそ、知り合いにも似た感情を抱いてしまう。 「商品の検品中に束ねていたバンドが切れて、高木くんと一緒にいた同僚に向かってなだれ込んできたんです。慌てた高木くんが同僚を押しのけ、かばってしまったことで事故に遭いました」 「商品と言いましても、御社が取り扱っている木材の種類がいろいろあることは、高木からの話で伺っています」  商品がなだれ込むなんて、建材で使うものなら大怪我につながる。だが上司である桜庭が大丈夫だと告げた言葉を信じ、商品について質問してみた。 「今回の事故で荷崩れを起こした商品は、すのこの材料になる軽い板材でした。重さは軽いとはいえ、何十本も倒れた木の下敷きになったので、助け出すのに時間がかかってしまって」 「そうですか。状況はわかりました」  想像した建材ではないことに、榊は内心ホッとしながら返事をすることができた。 「警察の事情聴取が済み次第、大学病院に向かいますが、榊さんはどうされますか?」 (どうするかなんて、聞くまでもないのに――家族なら、すぐにでも駆けつけなければならないだろ……) 「……上司と相談して、なるべく早めに早退できるように善処します」  榊は右手をデスクの上でぎゅっと握りしめながら、やっと言葉にした。 「わかりました。それではのちほど病院で」  端的に告げた桜庭の声がふっと途切れ、ツーツーという無機質な音が榊の鼓膜に響く。  頭の中では次にしなければならないことが流れているのに、力なく耳からスマホを外すのがやっとだった。なかなか行動に移せないのは、厄介な自分の上司の顔色を窺わなければならないから。 「和臣……」  今頃痛みで苦しんでいる姿を想像したら、動かなければと榊のスイッチが入った。手にしているスマホのロックを解除し、ハイヤーを呼び出すアプリを起動する。  早朝出勤からはじまり、残業で夜遅く帰宅する榊が普段使っている足は、黒塗りのハイヤーだった。  二年前にあった会社主催のゴルフコンペで、同じ部署の同僚と一緒に用意されたハイヤーに乗り込むことになり、後部座席に上司と先輩が座ったので、必然的に榊は助手席に座ることになった。  ゴルフ場に到着するまでの一時間、隣で運転しているドライバーの人柄のよさと安全運転にすっかり惚れこんだ。それだけじゃなく、世間話から六つ年上のドライバーと出身校が同じことがわかった途端に、学校のあるあるネタで盛り上がり、後部座席にいるふたりを失笑させてしまった。  ゴルフコンペが終わったあとも、ゴルフの疲れを見せずに、車内で互いの身の上話に花が咲いた。  会社前で解散するのに車から降りた榊へ、ドライバーの橋本が『話があるんだけど』と声をかけてきた。月極で個人契約している枠がひとつ空いているから、仕事で使ってみないかという誘いだった。同窓生のよしみで、料金や榊の行動になるべく合わせるという配慮に、二つ返事で了承した経緯がある。 『和臣が仕事中に怪我をして、大学病院に運ばれました。今直ぐ駆けつけたいんだけど、会社まで車を出せますか?』  重たい内容の文章を榊は気落ちしながら打ち込み、メッセージを送信した。返信を待つ間に、パソコンやモニターの電源を落としてデスク周りを整頓しつつ、離れた席にいる上司の荒木田の顔色を横目で窺ってみる。  榊が所属している部署の業務成績を上げるために、関西支店から配属されてきた男で、たった一年という短期間で底辺からトップに押し上げた手腕の持ち主でもある。  40代という年相応の見た目はいいとして、眼鏡の奥の瞳がいつもギラついている上に、三年もここにいるのに関西弁を使って仕事の命令してくることは、榊を含めた同僚を恐怖に陥れた。  榊のデスクから窺う荒木田の様子は、どう見ても芳しい感じではなかった。眉間にしわが寄っているだけじゃなく、口角の端が下がっている。そんな不機嫌丸出しのタイミングで早退を申し出ても、すんなり帰してもらえる気がしない。 『恭介、大丈夫か? 車は30分以内に会社に到着させる』  落胆しているところになされた橋本のメッセージに、榊は泣きそうになりながら返信する。 『突然無理言ってすみません。上司に早退許可をとってから外で待ってます』  あえて心情を語らずにスケジュールの変更について謝罪をし、アプリを終了した。ここで弱音を吐いてしまったら、このあとになされるであろう、荒木田からの罵詈雑言に堪えられないと判断したから。  しあわせを逃がすような盛大なため息をつきながら榊は立ち上がり、荒木田のデスクに向かう。それに気がつき、さらに眉間のしわを深くしながら榊を見つめる視線が、躰にぐさぐさと突き刺さった。 「荒木田さん、お忙しいところすみません。お話がありまして……」 「ぁあ? なんや、しあわせ自慢しに来たんか? みんなが汗水垂らして働いていたときに、楽しく新婚旅行してすみませんっちゅう話でも聞かせるんかい」  新婚旅行の休みは事前に有給休暇で申請したというのに、そのことをよく思っていない荒木田は、こうしてネチネチと話題に出してきた。  前の上司は、部下をよくねぎらってくれる人だった。月のノルマがこなせなかった部下の分を指導力がないせいだからとみずから被り、一生懸命に頑張っていた姿を見ていたからこそ、積極的に仕事に励まなくてはと部署が一丸となって、いい雰囲気が漂っていた。この人がやって来るまでは――。 『ええ顔して仕事を適当にやっとるだけじゃ、成果は全然出ぇへん。俺がここに配属されたからには、当然トップを目指す。上司命令は絶対やと思え!』  関西にある支店の数店舗の業務改革をしたことで、ここに引っ張られてきたすごい人という羨望が、失望に変わったのはすぐだった。 「新婚旅行の際は、忙しい時期にお休みをいただいて、本当にすみませんでした」  榊は両脇に下ろしている拳を握りしめながら、きちんと頭を下げた。ここはなにを言われても、我慢するしかない場面だった。 「わざわざ謝罪しに来たんじゃないんやろ。さっさと要件を言えや」 「はい。実は今しがた同居している家族が仕事中に事故に遭いまして、病院に運ばれたそうなんです。それで」 「大切な仕事を放り出して、早退したいんですぅ。なんて言おうとしとるじゃなかろうな?」  荒木田によって榊の言葉を先にさらわれ、口を引き結ぶしかなかった。 「なんや、その顔。図星ですって書いてあるで。おもろいなぁ、ウチの部署のお笑い担当になったみたいや」 「……否定はしません。早退させてください」 「ほおっ、否定せぇへんって。みんな聞ぃたか、榊がお笑い担当になったで。なにして笑わせるんや?」  図星だったことについて否定しないと言った榊のセリフを、荒木田はわざとらしく手をたたいて揚げ足を取る。 「早退させてください!」  一刻でも早く駆けつけたいという榊の気持ちを逆手にとった荒木田の発言は、焦る心情に拍車をかけた。  悲痛な叫びに似た声で願い出ている榊を、したり顔で荒木田は見上げた。あえて自分からはなにも言わずに、榊がなにを口にするのかと、目の前で妙な笑顔を見せつけた。 「荒木田さん、お願いします。早退させてください」 「新婚旅行で休みを取ったり、家族のために早退するやなんて、今月のノルマは達成できるんやろぅなぁ?」 「もういいでしょう! 早く榊を早退させてあげてくださいっ」  一年先輩の前野が唐突に立ち上がり、自分のデスクから荒木田に向かって頭を下げる。 「前野さん……」 「後輩思いの先輩を演じとる前野は格好よく見えるけど、先月榊にノルマを被せてしもた罪の意識だけで、手助けしとるだけだもんな。はぁ美しい!」 「違っ、俺はそんなんじゃなく――」 「自分がやらかした失敗で胃に穴をあけたのに、他人にかまけとる余裕はないんとちゃうんか?」  先月、軽度の胃潰瘍で入院したせいでノルマを達成できなかった前野を、ここぞとばかりにけなす荒木田を呪わずにはいられなかった。 (駄目だ、マイナスな感情にとらわれている暇はない。一刻でも早く、和臣の顔を見るために)  榊はその場から振り返って、こちらを見ている前野に視線を合わせた。 「榊……」 「ありがとうございます、前野さん」  大丈夫ですからという言葉を口パクで伝えたら、前野は小さくほほ笑んで頷き、荒木田の視野から消えるように部署から出て行った。  たぶん気持ちを入れ替えるために、煙草を吸いに行ったのだろう。それだけじゃなく、後輩がいたぶられる姿をこれ以上は見たくなかったのかもしれない。  榊は出て行く前野の背中を無言で見送ってから、ふたたび荒木田に向かい合った。 「なんや、その目ぇ。そないな顔しとったらモテへんぞ」 「お願いします、早退させてくださいっ」 「榊が必死な顔して頼み込む姿に、思わず胸を打たれてしもたわ。しゃあないな、条件をつけたる」  いつもなら時間をかけて、いたぶるような言葉を投げつけてくる荒木田の意外なセリフに、嫌な予感が榊の頭の中をよぎった。 「荒木田さん、今月のノルマは必ず達成します。なんとしてでもやってのけますので――」  妙なお願いをされる前にと、先手を取った榊を見つめる荒木田の眼鏡の奥の瞳が、うれしげにすっと細められた。 「今月のノルマの達成は、当たり前のことやろ。前野のように、誰かに被せたいんかい?」  いまさらなにを言ってるんだという問いかけに、無言で首を横に振ってみせた。 「なら話は早い。おまえが断っとる婚活パーティーに出席することが条件や」 「なっ!? だって俺は結婚してるんです。パーティーに出席なんて、騙すことになるじゃないですか」  結婚前に一度だけ強引に出席させられたが、和臣と結婚してからはずっと断り続けた仕事だった。 「おまえはそないな、細かいことを気にせんでええ。前回同様にただ黙って、そこら辺に突っ立っていればいいだけなんやから」 「そんな……」  出席している女性の中には、真剣に結婚を熱望して来ていることを、実際に耳にしたからこそわかった。だから上司命令とはいえ、恋人のいる自分が顔を出してしまったことを激しく後悔した。もうニ度と出席しないと決めたのに――。 「イケメン榊の能力を正しく使うてるだけなのに、怒る意味がわからん。傍からの眺めは壮観やったで。フリータイムになった途端に、おまえに群がっていく女の背中を、歯ぎしりしながら物悲しげに見つめる、哀れな男たちの顔がな」 「…………」 「落胆する彼らの肩をたたき、優しい言葉をかけるだけであら不思議。次々とええお話につながっていく。まぁ俺の中にある、仕事の能力を発揮しとるだけやけどな」  榊の頭の中に荒木田をののしりたい言葉がたくさん駆け巡っていくが、握りしめている拳をさらに握って、いろんな感情をやり過ごした。 「早退させてください……」  こんな横暴な上司の戯言を聞いてる場合じゃないと、同じ言葉を震える声でやっと吐き出した。 「さっきも言ったやろ。婚活パーティーに出席しなきゃ帰さへんで」 「……わかりました。条件を飲みます」  この男に条件を提示された時点で、榊に断るという選択権はなかった。  荒木田に促され、婚活パーティーに一度だけ出席すると念書を急いで書いてから、同僚からの憐れみの視線に送られて、飛び出すように部署をあとにしたのだった。 【続きは製品でお楽しみください】

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