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11. 八月に立つ
吉村さんも駅の近くまで出かけるというので、一緒に家を出た。蝉の声が降ってきて、強い陽射しにすぐ汗が噴き出す。
「あっちい、まさに猛暑ですね」
「これ、お前のおかげで音しなくなった」
門を閉めながら吉村さんが言う。
「よかったです」
「庭は、どうすっかなあ」
呟いて、彼は坂を下り始めた。
砂利を踏む足取りを見ながら、ふと思い出して振り返ると、石段の上の木戸にやはり影が映っていた。
「吉村さん、あの上って何があるんですか」
彼はちらっと振り向いたが、足を止めなかった。
「別に何もない。家があるけど、ずいぶん前から人は住んでない」
「空き家か」
「なんで?」
「こないだあそこに誰かいるって思ったら影だったんですけど、それで近くから見たらすげえ古い門なんで気になって」
吉村さんは立ち止まった。
「影って?」
俺は木戸を指差す。
「人の形かどうかはともかく、大きさ的にちょうどそういう感じに見えませんか。でかい人が立ってるみたいに」
吉村さんは、俺の指の先を追ってじっと木戸を見て、俺に視線を移し、そっか、と言って歩き出した。
「え、なんですか」
追いついて顔を覗き込むと、愉快そうに口元をほころばせていた。
「どうかしました?」
「どうもしないが、少なくとも俺には影は見えない」
もう一度振り返る。神崎さんと初めて来た時より石段の両脇の緑が生い茂って見えづらいが、木戸に映る黒い影ははっきり見えた。
タクシーを呼んだので、吉村さんは坂の下で立ち止まり、俺が追いついて、
「見えますよね?」
と蝉に負けないくらいの大音量で聞くと、にっこりと笑った。
「母親は、毎年八月になると、あそこに甲冑付けた武士が立つって言ってたよ」
吉村さんは笑顔のまま、俺の背後を見上げた。
「俺と親父には見えなかった」
振り向こうとすると、首の後ろから背中にかけて、体が強張るほどの強い寒気が走った。
「ええ?吉村さん、もしかしてお化けの話してます?」
「どうだかな。見える人と見えない人がいるってこと」
「やめてください」
俺は鳥肌がたった両腕をさすり、吉村さんはあははと声を出して笑った。そんな風に笑うのを、この時初めて見た。
「別に何かしてくるとかじゃねえから。怖くないって」
「いやいや怖いですよ、何なんですか、武士って」
「母親にはそう見えたってだけだろ。ああでも、夏になると、霞がかかったみたいにあそこがぼやけて見えるってことは俺もあった」
「あった、じゃないですよ、すげえ寒気、ほら鳥肌こんな」
すぐタクシーが来て二人で乗り込み、俺は窓越しに恐る恐る石段を見たが、その角度から木戸は見えなかった。
車は、バスとは違う道を通って、細い路地や住宅街を小さなカーブを繰り返しながら抜けていく。
「南、普段からそういうの見える?」
「見えません」
彼がまだ楽しそうなので、からかわれているのかもしれない、と思う。
「明らかに木の影が差してたじゃないですか」
吉村さんは首を横に振った。
「今度また見てみろ」
次の約束はしていなかった。
大きな交差点の手前で、車を下りた。
「暑いけど、駅のロータリー入るのに時間がかかるから」
吉村さんは、肩にかけた布の大きなバッグからケースを出して、薄い茶色のサングラスをかけた。
「こんなに暑くなければ、うちから駅まで歩けなくはないんだがな」
「それ、聞こうと思ってました。歩けますよね」
「歩く時は、今通ったのとはまた別の裏道があんだ、時間はかかるけど、車が通らない道が」
歩道は観光客で溢れかえり、首の後ろに陽が当たって、じりじりと焼ける音が聞こえそうだった。信号が変わり、横断歩道を渡る。
「駅すぐそこだから送る。それともお前、どっか見てくか?」
「吉村さんは?」
「用事済ませて、買い物して帰って仕事」
「お仕事忙しいですね」
「単価が安い」
駅前にもたくさんの人が行き交っていた。
外で見る吉村さんは、やはり人目をひく。
俺はかわいいと思う人を好きになる傾向があったが、この人はどことなく近寄りがたい雰囲気で、夏の光の下で見ても、何か別種の不思議な光に包まれているように見えた。
「今日は、まっすぐ帰ります」
「気をつけて」
「草刈り、どうしますか」
吉村さんは立ち止まり、俺も立ち止まった。人の流れをさえぎるので、二人で駅ビルの壁に寄った。
待ち合わせなのか、そこにもたくさん人がいて、皆スマホを手に持ち、帽子を被って、暑そうだった。
吉村さんはサングラスを外した。額に汗をかいて、前髪が少し濡れている。
「お前もう連休ないだろう?涼しくなったら、また頼むかも」
「あ、わかりました」
「でも、お化けが見えるのは八月限定だから、また来れば?」
そう言った後で、彼はひどくゆっくりと目を伏せた。
近くにいた中学生ぐらいの女の子達が、何かやかましく喋っていたと思ったら、沸き立つようにきゃあっと歓声をあげ、お互いの体に縋ってげらげら笑い続けている。
俺は吉村さんの腕に触れて、彼女達から少し離れた。
「いいんですか?俺、多分あなたのこと好きになりますけど」
彼はまたひどくゆっくりと瞼を上げて、上目遣いに俺を見た。
「昨日嬉しかったけど、別に吉村さん、俺が好きとかではないですよね」
「それは」
と言いかけてみるみる赤くなり、吉村さんは濡れた前髪を乱暴にかきあげる。
「だから吉村さんが、もうこういうのは無しとか、好きとか抜きでやりたいだけとか、言ってくれたらなるべく言う通りにします」
「何で言う通りにするんだ?」
小声で聞かれて、お客様ですから、と下らないことを言うのはやめて、俺はちょっと考えた。
「言う通りにしたら、また会えそうだからです」
吉村さんは息を吐いて空を仰ぎ、勢いをつけて俺に向き直った。切れ長の目が俺を真っ直ぐ見た。
「お前のことは、気になったんだよ」
「はい」
「でも、正直なとこ、自分でも何だかよくわからない」
「だから、してみたかった?」
また、みるみる頬が赤らんだ。かわいいが、まあそういうことか。
「とりあえずわかりました。そしたら、今月中にお化け見に行きます」
「……怖かったら、坂の下まで迎えに行ってやる」
「怖いのは、吉村さんですよ」
「俺?どういうことだ、怖くないだろ」
背後で女の子達がわあっと賑やかな声をあげた。
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