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第2話

 この庭は離れに住む者しか楽しめない庭だ。邸宅の奥深くに隠された秘密の場所は、この屋敷の持ち主が許可した者しか立ち入ることを許されない。  いまは、離れに住むコウと家主だけが楽しめる。  屋敷の主人は母屋で生活しているので、実質この庭はコウの独り占めだ。ここで暮らして五年になるが、毎年、季節の移り変わりとともにコウの情緒を豊かにしてくれる。 「明日は庭掃除だな……」  部屋へ戻る道すがら、足もとに落ちている折れ枝を拾い歩く。  屋敷の主人の方針で手入れは庭師に一任されているが、枯れ葉や枝を箒で掃くくらいはコウにもできるし、身の回りや生活環境が整っていると、なんとなくすっきりして落ち着くのでコウは進んで庭掃除をした。  部屋に戻ると卓子に置いていたペットボトルの水を飲み、寝間着のTシャツとスウェットからランニングウェアに着替える。自宅で食事は摂らず、いつも外で済ませるから、部屋にはミネラルウォーターの買い置きが数本あるだけだ。  部屋と庭を往来するためのサンダルからランニングシューズに履き替え、窓を開け放して換気してからまた庭へ出る。  軽く柔軟をして、六時十分前には裏門の前に立つ。いつもどおり、ぴったりの時間だ。  仕事の都合で難しい日もあるが、毎朝一時間走るのがコウの日課だ。基本的に予定は覆さない。今日一日のスケジュールを思い返しながら、自分の立てた予定に間違いはないかを確認して、間違いがなさそうなら安心するのがルーティンだった。 「おはよう、コウ」 「おはようございます、ウェイデ」  この屋敷の主人であるウェイデが裏門に姿を現した。  ウェイデは黒獅子の獣人だ。二メートル三十センチを超す背丈と雄々しい体躯の持ち主で、百八十五センチあるコウの視界には緑の光沢が艶めく鬣が広がる。  これから寝るところなのか、襟もとをゆるめたワイシャツから極上の鬣が溢れていた。 「眠そう。徹夜仕事ですか?」 「半分仕事、半分付き合いで呑んできた。朝まで呑むのは二十代までにしておくべきだな」  欠伸を連発して、ウェイデはがしがしと頭を掻く。 「まだ三十三歳なのに年寄りみたいなこと言って……。いま帰ってきたとこじゃないでしょ?」 「半時間くらい前か……。お前が家にいるなら徹夜なんぞに付き合わず俺も家に帰っていればよかった。……夜、一人でこわくなかったか?」 「俺もう二十三歳ですよ? 一人で眠れるし、朝もこうして毎日見送りに立ってもらわなくても大丈夫な年齢です」 「毎日勤勉なお前を見送るのが俺の日課だ。今日も走るんだろう?」 「はい」  ウェイデは金貸し業をしていて、昼夜逆転のことも多い。徹夜で眠いなら早く眠ればいいのに、どんな時でもコウが走りに出る日は必ず玄関に立ち、六時きっかりから走り始めるまでの十分間、おしゃべりをする。 在宅業務で時間に融通が利くから気にするなとウェイデが言ってくれるのに甘えて、コウも朝の十分間の会話を楽しみにしていた。  お互い別々の仕事をしていて毎日必ず言葉を交わすことが難しいなかで、顔を合わせることができる唯一の時間だ。朝、「おはよう」と挨拶ができるのは嬉しい。夜を一人で過ごしても、おはよう、という言葉で、今日もちゃんと朝を迎えられたと実感できる。 「今日の予定は?」 「午前中はいつもどおり、このまま走ってサティーヌのところに行きます。昼過ぎに一回帰ってきて、そこからは仕事で、夜は……帰りは分からないです。朝まで帰ってこないかもだから、明日は見送りに立たなくていいです」 「またか? ここのところずっと帰ってこなかったと思ったら……」 「まぁ、いろいろと忙しくて」 「生活や資金面、サティーヌのことで困り事があるなら……」 「大丈夫です」 「最後まで言わせろ」 「家主にそこまで迷惑かけられません」 「俺はお前を同じ屋根の下に暮らす家族だと思っている。お前が何事にも真面目に取り組む性格なのは知っているし、毎朝サティーヌのところへ通うのも立派だが、そのうえ夜遅くまで仕事をして……、それではお前の休む暇がない。頑張りすぎはいけない。たまには休日を作りなさい」 「そうします」 「是非そうしてくれ」 「じゃあ、そろそろ行ってきます」 「あぁ、いってらっしゃい。……その前に、携帯電話は持ったか?」 「…………」  ウェイデに言われて、コウは自分の右腕のホルスターを確認する。  携帯電話を差し込む二の腕のホルスターが空だった。 「持って出たと思ったけど……どこやったかな?」 「ちょっと待て。……ああ、部屋に忘れている」  コウがフーディのポケットを探る間に、ウェイデが自分の携帯電話のGPSで場所を確認してくれる。  コウは「ありがとうございます、ちょっと取ってきます」と断って部屋へ戻り、靴を履き替えた際に棚の上に置き忘れていた携帯電話を掴み、また裏門へ戻った。 「あったか?」 「ありました。棚の上でした」 「靴を履き替えた時か?」 「ご明察」 「やはり疲れてるんじゃないか? 走るのはサティーヌのところまでだろう? 車で送っていくぞ」 「大丈夫ですって」 「……なにがあっても連絡手段だけは手放すな。途中で具合が悪くなったら……」 「連絡します。じゃ、今度こそほんとにいってきます」 「いってらっしゃい。気をつけて」 「はい。ウェイデはおやすみなさい」 「あぁ、おやすみ」  コウが裏門を出て走り始めると、ウェイデが手を振る。  コウも手を振り返すと「前を見て走れ」と言われて、前を見て走る。  ウェイデは、いつもコウが最初の曲がり角を曲がるまで見守ってくれる。ちょっと心配性だ。このあたりは景観保護地区で車の出入りも時間帯で限られていて交通量も少ないし、治安もそんなに悪くない。なのに、まるで小さな子供を送り出すように毎日心配する。ちょっと過保護だ。その過保護さが、コウにはくすぐったくて、でも嫌いじゃないし、ありがたいし、嬉しい。  ウェイデはコウの行動や生活に口も手も挟まないし、多くは言わないけれど、コウが個人で営んでいる調達屋の仕事が心配なようで、互いの携帯電話にGPSを入れて所在確認をしたり、毎朝コウの元気な姿を確認したり、「連絡手段だけは忘れないように」と声をかけてくれる。  本当に親切な家主だ。  居心地が好くて、安心して寝起きできる場所を与えてくれる人だ。  そして、それ以上にも、それ以下にもしてはいけない人だ。  コウは今朝のウェイデの表情や声を反芻して、ついついにやけてしまう頬の内側をゆるく噛んで誤魔化し、いつもの道を走った。

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