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第4話

 コウはサティーヌの口もとに手を翳し、そっと撫ぜるように頬に触れ、人肌よりもすっかり冷えた熱を指先に感じる。  まったく覚悟していなかったわけではない。サティーヌからも死後を頼まれていたから、いまはなにも考えず生前の彼女の指示に従って動くことだけに集中した。 「サティーヌ、すこし一人にします」  コウは生きている彼女に話しかけるように断りを入れて彼女の部屋を出た。 「こーくん、ミホシ、起きた」 「おはよう。ミホシ。上手に着替えられたな」  ちょうど着替えを済ませたミホシと廊下で顔を合わせたので、その場に両膝をつき「おいで」と手を広げると、ミホシが懐にやってくる。 「ママ・サティーヌは? おはようのご挨拶は?」 「うん、まだ寝てるからもうすこし静かにしておいてあげよう」 「……死んじゃった?」 「…………うん」  コウが思っているよりももっとミホシは大人でしっかり者だったらしい。  コウの声や表情から察したらしく、コウの首筋にしっかりと抱きつくと、狐耳をぺしゃんと寝かせ、狐の尻尾をコウの腕にくるんと巻きつけ、すん、と鼻を鳴らす。涙を溜めたミホシの真っ黒な瞳が瞬きすると、コウの首筋にじわりと熱く滲むものがあった。  ミホシを抱いたまま一階へ下りて、キッチンのアイランドテーブルに置いた携帯電話を手に取り、片手で電話をかける。  電話先は弁護士だ。新市街地で事務所を構えて成功している。コウより二十五歳年上の四十八歳。彼もこの孤児院出身で、コウと同じくサティーヌの信任を受け、彼女の財産や種々様々な物事を管理し、手助けしていた。 「ああ、アンリにいちゃん? 俺です、コウです。朝からごめん。……うん、そう……、そう、夜中のうちに……。こっちは大丈夫。……じゃあ、俺は姉ちゃんたちに連絡入れます。ほんとに大丈夫だって、サティーヌがぜんぶお膳立てしてくれてたから、俺はそのとおりに動くだけだし、にいちゃんも忙しいのにごめんな。……ミホシ? うん、いまここにいる。替わろうか? ……ミホシ、にゃんこのおじちゃんから電話、お話するか?」 「にゃんこのおじちゃん……」 「ふわふわのでっかい猫。アンリのおじちゃん」 「アンリ! うん、お話する! ……もしもし? にゃんこのおじちゃん?」  ミホシはコウにぴったりくっついたまま電話口へ話しかける。  孤児院で育ったせいか、血が繋がっていなくても年上は全員兄であり姉だ。弁護士のアンリはメインクーンの猫獣人で、コウがここへ引き取られてきた時にも諸々の手続きで世話になった。  ミホシがおしゃべりに夢中になっている間にコウは朝食の仕上げをして、ふと、サティーヌのティーカップを手に、「……あぁ、そうか、今日からサティーヌはこのお気に入りを使うこともないのか……」と、思った。  それでも、なんとなく、今日いきなりサティーヌの朝食だけを準備しないのは気持ち的にできなくて、いつもどおり三人分の朝食を支度した。  コウはコーヒー。サティーヌは紅茶と冷たいミルク、クロワッサン。ミホシは温めたミルクとカップケーキ、ヨーグルトと果物だ。 「うん、じゃあね、にゃんこのおじちゃん。……こーくん、お電話終わったよ」 「はいよ。……あぁ、にいちゃん? 俺です。うん、当面こっちにいる予定。仕事は適当に都合つけるよ、大丈夫。そういうわけで……、じゃあよろしくお願いします」  電話を切って、ミホシを抱いたままキッチンの椅子に腰を下ろす。 「ミホシ、俺はいまから姉ちゃんたちに電話するから、ちょっと待っててくれるか?」 「はい」 「いい子」  ミホシの頭を撫でて膝に抱いたまま電話をかける。 「もしもし、コウです。……姉ちゃん? 朝からごめんな?」  サティーヌは長く孤児院を営んでいた。  当然のこと、巣立っていった者も大勢いる。  弁護士のアンリのように特定の分野で成功している者もいれば、軍人として立身出世していたり、政治や経済界で活躍していたり、将来有望な研究者であったり……なにかと頼もしい兄弟姉妹が大勢いる。  サティーヌを担当しているソーシャルワーカーや通いの医師、看護師なども、かつてサティーヌに育まれてきた子供たちで、皆ですこしずつ助け合い、ありとあらゆる面で彼女をサポートしていた。 「ミホシ、これからちょっと忙しくなるけど、ミホシはいつもどおりでいいからな」 「じゃあ、ミホシは、ママ・サティーヌのお部屋で朝ごはんを食べて、歯を磨いて、本を読むよ」 「あぁ、そうだな、それがいつもどおりだ。じゃあ、朝ご飯にしよう」  三人分の朝食をシルバートレイに乗せて、サティーヌの部屋へ運んだ。  ミホシも、いつも手伝ってくれるようにパンを入れたバスケットを両腕に抱えて運んでくれる。 「死んだ人、こわくないか?」 「死んだ人、じゃなくて、ママ・サティーヌだよ」 「そっか……」  美しいサティーヌの亡骸とはいえ、子供に死者と対面させて心の傷になりはしないだろうか。衝立越しに声をかけさせるのみに留めて、死に顔は見せないほうが賢明だろうか……。コウはそんな心配をしたが、ミホシは「ママ・サティーヌが一人だとかわいそう。早くお部屋に行ってごはん食べよ?」とコウをせっついた。

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