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第2話

握った資料を見もせずにデスクの上に放り投げると、ピースの箱とライターを握って、一度も自席に座らないで天海は事務所を出て行った。その背中を所員は心配そうに見ていて、天海もそれに気付いていたけれど、それをどうにかしようという気がそもそもなかった。エレベーターホールを横切って、ベランダに出る。ここが事務所の中で唯一の喫煙スペースだったから、煙草を吸うためにはここに行くしかなかった。いつもは追いやられた喫煙者の誰かがいることが多かったけれど、今日は変な時間だからなのか、まだ誰もいなかった。天海はそのままベランダの奥まで行くと、柵に凭れる格好で持ってきたピースに火をつけた。煙草は値段が上がっていくし、喫煙するスペースはどんどん限られていくしで、喫煙者は段々数を減らしている。あれだけ煙草を吸っていた真中も、禁煙すると言い出してぴたりとやめてしまった。天海だってやめられたらいいなとは思うけれど、実際には無理だ。ヘビースモーカーの自覚のある天海は、最早ニコチンがないと生きていけない。 (あんなこと言うべきじゃなかった) (真中さん呆れた顔してたな、さいあく) 考えながら煙を肺まで入れる。そうすると少しだけすっとするから、やっぱり天海は煙草を吸うことを止めることが出来ないのだ。残念ながら。あと一本吸ったら、仕事に戻らなければと、考えながら天海は短くなった煙草を灰皿の中に投げて、それから咥えた煙草に火をつけた。別に今更、真中に媚びたいとも思わないし、天海は自分がドライだなと思うけれど、他のリーダー達や所員みたいに、真中に変な憧れを抱いていない。現実的に真中は尊敬できる人間だとは思っているけれど、きっといい上司だし仕事のできる人間だと思っているけれど、多分それだけだ。真中に認められたいとか良い風に思われたいとか、そんなことを天海は考えたことはないし、きっとこれからも考えないだろうけれど、それでも、真中にあんな顔をされたくはなかった。考えていると、ベランダの扉が開いた音がして、ふっと振り返ると、そこに柴田が立っていた。 「アマさん」 真中が天海のことをそう呼ぶので、事務所の中では先輩も後輩も皆、そうやって真中とおんなじように天海のことを呼ぶ。天海には同期がいなかったから、昔はいたがもう皆辞めてしまって、事務所の中には同期がいなかったから、天海のことを敬称を付けずに呼ぶ人間は、もう事務所の中には真中しかいなかった。そうするのが当然みたいに、柴田は相変わらず会議室で見たのと同じ青い顔をしてこちらにやって来て、火をつけたばかりの煙草を消そうかと天海は思った。そういえば柴田も喫煙者だった。天海と違って、一日に一箱二箱も吸ってしまうようなタイプではないようだったが。柴田は何でもない顔をして、天海の隣にすたすたとやって来ると煙草を出さずに、先程会議で配られた資料を天海に向かって差し出した。同じものを持っているのに、どうして柴田がそんなことをするのか分からずに、天海はそれを目では見たけれど手には取らなかった。 「なに」 「氷川さんの、これ見ました?」 短く放った言葉はどこか刺々しいような気がしたけれど、青白い顔をした柴田には全く響いていないようだった。何故か、嬉々として柴田は手元の資料を天海に見せるのを諦めたのか、自分で捲りはじめる。会議が終わった後、所長室によって、そしてそのままここに来たから、内容までは読んでいなかった。面倒臭いと思いながら、柴田の伏せられた目元を仕方なく見やる。 「なんか、画家の個展の空間プロデュースの仕事みたいなんですけど」 「変ですよね、氷川さんがする仕事にしては規模が小さすぎるし」 「ただクレジットがついているだけかな」 天海が全く返事をしないので、柴田は殆ど独り言をべらべら喋っているみたいになっている。それを見ながら、どこでもいいから早くどこかに、出来れば自分の目の届かないところに、行って欲しいと思いながら、そうはならない現実を斜めから見ている。柴田に副所長という肩書がついたのが、この春だった。元々中途採用された時から、とんでもなく頭の切れる男だとは思っていたけれど、柴田はそうしてとんとん拍子に真中の信頼を、この事務所の全員が、おそらくは天海以外の全員が、喉から手が出るほど欲しいと思っている信頼を、多分そうして一番勝ち取って、波多野や天海のような古株を差し置いて、さっさと一番真中に近い椅子をそうして手に入れてしまった。その目の下の暗い色をした皮膚とか、それに続く頬の青白さとか、そういうものを見ている限り、きっと柴田も努力と我が身を文字通り削ることを惜しまなかったのだろうことは分かるし、こんなことは評価されなかった自分の、ただの僻みでしかないことだって分かっているのだけれど、そんなことを差し置いてもまだ、天海は柴田のことが嫌いだった。それはもう理屈ではなく、生理的な意味合いで。 「・・・と、俺、思うんですけど、これって一度氷川さんサイドに確認したほうが・・・―――」 「柴」 夢中になって喋っていた柴田は、はたとそこで気づいたみたいに、顔を上げた。柴田は多分頭が良いから、天海が柴田のことを良く思っていないことくらい、本当は分かっているのだろうと思うのだが、こういう時、こういう余計なことを言いに来る時、どうして自分から火に飛び込むようなことをするのだろうと、天海は思う。放っておけばいいのだ、自分の事なんか。 「柴、心配してくれるのは結構だが、俺はお前に心配されるような仕事をした覚えはないよ」 「・・・いや、そうじゃなくて・・・」 「それとも、俺にこんなことをいちいち言いに来るのが、お前の仕事なの」 「・・・―――」 驚いたように柴田は一瞬だけ目を丸くして、その唇をゆっくり閉じた。短くなった煙草を灰皿に放り投げ、天海はふらりと凭れていた柵を離れて、ベランダからエレベーターホールに続く扉に手をかけた。ゆっくり柴田が振り返ってこっちを見るのが気配だけで分かった。 「すみません、アマさん」 はっきりと柴田の声は聞こえたけれど、天海はそれを知らないふりをして、そのまま扉を開けてエレベーターホールに入った。そこは節電のせいで電気が中途半端にしかついていなくて、いつもぼんやりと薄暗かった。追いかけてくるかなと思ったけれど、天海の背中の扉は静かだった。こんなことで柴田に当たるのは筋違いだと思っているけれど、どうしようもなく苛々することを、自分ではもはや止めることが出来ない。天海はそこに立ったまま考えた。別に真中の信頼が、他の所員みたいに欲しいわけじゃなかった。今の自分の立ち位置が、真中の評価が、間違っていると言うつもりも勿論ない。柴田は仕事ができるし、出来る人間が上に立つのは、それはもう仕方がないことで、自分の裁量や器量が、この辺りなのだという自覚が、天海には勿論あった。自分のことを上手く客観視できないわけではない。だけどそんな理屈ではないのだ、理屈ではなく、ただ苛々するのだ。それはもう本能的な意味合いで。柴田が怒っていても笑っていても、何をしていたってきっと自分は苛々する。 (今のは駄目だ、俺が悪い) (あんなのは完全に八つ当たりだ) 目の前が暗くなる。今まで好きでやっていた仕事が、そうやって天海を苦しめる日が来るなんて、考えたこともなかった。他の所員みたいにあからさまな熱量ではなくたって、天海は天海の出来る範囲で、それなりに上手く今までやって来たつもりだったし、大きな失敗だってしていない。だけど何となく今まで無難に当たり障りなくやってきたことのツケが今になって回って来たのかもしれないと、溜め息を吐いて思う。摂取したばかりのニコチンがまた欲しくなって、天海は奥歯を噛んだ。けれどもうベランダには戻れないし、天海はそこを振り返ることも出来ない。事務所の扉を開けると、中は嘘みたいに明るかった。 (苛々する) それは誰でもなく、自分自身に。

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