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第3話

自席に戻ると、天海は柴田が先程差し出してきた、会議で配られた資料を捲った。確かに柴田の言うとおり、それは規模も小さく、あの天才カリスマ氷川了以がする仕事には似つかわしくないと思った。パソコンを開いて、メールボックスを開くと、真中からさらに詳細の資料がメールに添付されている。本文はよろしくとだけ書いてあって、なんだか素っ気無いのが、天海の前の真中らしかった。天海はぼんやりと真中の添付してきた資料を読んでいた。スポンサーがついているにはついていたが、そんなに大手でもなさそうだし、個展の主催になっている画家の名前も知らないけれど、そもそも芸術と縁遠い自分が知らないだけで、その界隈では有名な人物なのだろうかと、考えを巡らせる。氷川のクレジットの仕事は、真中にくっついて何度かやったことがあるが、単独ははじめてだった。はじめは班員も勉強も兼ねて何人か連れて行こうかと思ったけれど、このくらいならひとりでよかった。ただでさえ、苦手な氷川との仕事に、余計なことを付随させるのは止めようと思った。 「アマさん」 ふと呼びかけられて、天海はパソコンから顔を上げた。天海のデスクの前に須賀原(スガワラ)が立っている。この春の人事で天海の班に移動してきたばかりの須賀原は、柴田とはまた違った尺度でいつも青い顔をして俯いていることが多かった。 「なに」 「昨日の、決済回したの、あったじゃないですか・・・」 「あぁ、もう真中さんに回したけど」 「すみません、あれちょっと変更があって」 言いながら須賀原は黒縁の眼鏡を忙しなく触って、青い唇をぶるぶると震わせた。天海はぼんやりと昨日目を通した須賀原の報告書を思い出しながら、ふうと溜め息を吐いた。すると須賀原がそれに気付いたみたいに、びくりと肩を震わせる。滅多なことで表情を変えない天海のことを、後輩が皆恐れていることを、天海は何となく気づいていたけれど、今更フランクになれと言われて、急になれるわけではなかったが、天海は天海なりにそのことを考えなくもない。須賀原みたいな相手には特に。 「分かった、あれ納期いつ?」 「・・・来週頭です」 目を伏せて、酷く言い辛そうに須賀原が言う。来週頭なら、今から直していても、間に合うかどうか微妙なところだなと天海は静かに思った。今日、氷川に挨拶の一つでもしておこうかと思ったけれど、それは仕方がないのでまた明日にでも回すしかないだろう。天海はデスクから立ち上がった。そういう何でもない動作のひとつひとつに、須賀原はいちいち反応してびくついている。 「持ってこい」 「・・・はい、すみません」 「矢野、お前、手空いてるか」 天海と須賀原の不穏な話を聞くでもなく聞いていただろう、天海のすぐ右斜め前のデスクに座っている矢野は、天海が一番信頼を置いている部下であり、そして異動してきた須賀原のお目付け役でもある。矢野はふたりの子どもの母親だったが、嫌がらずに仕事を引き受けてくれて、残業も良くしているが、それで家庭の方は大丈夫なのかと、逆に天海が心配するくらいだった。須賀原はというと、新入社員ではなかったから、そんなに手厚く面倒を見てやる必要はなかったが、班にはその班なりのルールややり方があり、それを覚えるまでの間は、そうしてふたり一組で組んで仕事をすることも多かった。矢野は天海の声に反応してぱっと手を上げると、こちらに向かってにこっと笑った。矢野はいつでも愛想がいい。 「はーい」 「悪い、ちょっと手伝ってくれ」 「了解しました、すがちゃん、見せて」 その時も矢野は全く嫌そうな顔をせず、肩を落とす須賀原の背中を軽快に叩いている。例えば、矢野みたいな明るさとコミュニケーション力が自分にもあれば、と思うことが、天海もないことはない。余計な負荷を部下にもかけずに済むし、須賀原だって震えて喋ることもなくなるだろう。けれどこれは生まれ持った性分だから、きっと今更どうにもならないのだ。 (生まれ持った性分) 考えながら頭の中で呟いて、天海は仕事に没頭しているふりをしている。もう何年もずっと。 「・・・お、終わった・・・」 時刻は10時前を差している。須賀原はそう呟いて、机に突っ伏した。昨日の今日でミスを発見した時は、背筋が凍るかと思ったけれど、これでなんとか納期に間に合いそうである。机に臥せったまま、須賀原がじっと座っていると、その背中をばしばしと隣に座っている矢野に叩かれる。 「おつかれ、すがちゃん」 「・・・うう、矢野さん・・・すいませんでした」 「いいって、それよりもう帰っていいって、アマさんが」 「・・・えー」 顔を上げると、矢野は長くて茶色の髪をかき上げるようにして、にこにこと笑っていた。矢野はいつでもにこにこしていて煩くはないのに、愛想は良い。それなのにあの万年仏頂面の天海と仲が良いのだから、ふたりの関係はよく分からない。社内ではまことしやかに、矢野は天海と不倫しているのではないかなんて、言う奴もいたりする。須賀原もそれを半ば信じている側の人間だったが、天海班に移ってきて近くで二人の様子を見ていると、それが噂の域を決して脱しないものであることはすぐに分かった。 「アマさんは?」 「持ってってるよ、所長室」 言いながら矢野は帰るつもりなのか、デスクの上に鞄を置いて、ちゃっちゃっと机の上の荷物を詰め込み始めた。須賀原も今日はこんな時間まで残業なんて久しぶりにしたし、心身共に疲れたし、ミスしたせいで気持ちもざわざわしたまま落ち着かないしで、勿論早く今すぐにでも帰りたいと思ったけれど、天海が自分の尻拭いをしてくれているのに、のこのこ帰る気にはとてもなれなかった。 「・・・俺、アマさんのこと待ってます」 「すがちゃん落ち込んでんの?」 「・・・落ち込みます、流石に」 「大丈夫だって、アマさんこんなことなんとも思ってないから」 あははと矢野は笑いながら、何でもないことのようにそう言った。矢野は同じ時間残業をしたとは思えないほど、そうして見るとまだまだ元気そうだった。矢野がそう言うならきっとそうなのだろう。矢野の言い方にはそれくらい信憑性があった。それが天海の事ならば余計に。須賀原は無駄に冷たいデスクに頬を半分つけながら、立ったままの矢野を見上げた。 「それはそれで虚しくないですか」 「え?」 「・・・だったらめちゃくちゃ怒られた方がまだマシです。何とも思われてないなんて・・・」 机に顔をつけたまま、もごもごと須賀原は泣き言を零した。

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