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第4話

「すがちゃんマゾなの?アマさん怒ったらきっとすごく怖いと思うけど」 「違いますよ、でも、何とも思われてないなんて、虚しいじゃないですか、俺の事なんか興味がないみたいで。まぁほんとに興味がないのかもしれませんが・・・」 「・・・そんなことないと思うけど」 「え?」 珍しく矢野が小さい声で呟くので、思わず須賀原は何も考えずに聞き返していた。すると遠くでがちゃりと扉の開く音がして、矢野はぱっとそちらに目を向けた。須賀原も慌てて視線の先を追う。ややあって、所長室から天海が出てくるのが見えた。天海も同じくらい残業をしていた割には、表情は変わらずで、それは時々こちらがどきりとするくらい、余りにも静かだった。 「アマさん、おっけー?」 「・・・あぁ、とりあえず、これで進めるって」 「良かったじゃん、すがちゃん!」 それを聞いていつものにこにこ顔に戻った矢野は、そう言って須賀原の背中をまたばしばしと力強く叩いた。須賀原は青い顔を一層青くしながら、矢野に叩かれたダメージもあるのだろうが、よろよろとデスクから立ち上がって、天海に頭を下げた。 「アマさん、すみません・・・俺のミスのせいで」 「別にいい、次から気をつけろ」 天海の答えは何となく予想が出来たけれど、声色まで一層冷たくて、須賀原は顔を上げて天海の顔を見るのが怖いと思った。すると隣に立っていた矢野がすっと動いて、自席に戻る天海の後ろをひょこひょこと追いかけた。須賀原は十分時間が経ってから、ゆっくり顔を上げる。 「アマさん、こんな時間になっちゃいましたし、飲みに行きません?ひさびさ」 「・・・―――」 須賀原は矢野の明るい声を聞きながら、こんなに疲れているのにこれから飲みに行こうなんて言う矢野の神経を疑うと思ったけれど、誘われた方の天海もまんざらでもない様子で、少し考えるような素振りをしたので、それには心底びっくりした。こんな風に、天海と矢野は時々ふたりで飲みに行くような間柄らしい。万年仏頂面で近寄りがたいオーラを放つ天海のことを、矢野以外の誰も誘ったりはしないので、あんな根も葉もない変な噂が立ったりするのだ。これはここで帰らないと自分も誘われるのではないかと思って、須賀原は慌てて鞄にデスクの上に散乱している私物を突っ込んだ。 「いや、今日はやめとく」 「えぇー、ざんねん」 「それよりお前、早く帰ってやれよ、チビが心配するだろ」 「今日は旦那に任せてるからいいんですぅ、それに多分もう寝てるし」 言いながら矢野は事務所にかかっている時計を振り返って見やった。もう11時が近かった。 一時間後、天海は家かも職場からも程よく離れたゲイバーの『aqua』に訪れていた。帰り際に矢野が誘ってくれたことは、きっと矢野なりの気遣いで、ストレスが溜まっている自分のことを、気にかけてくれたのだろうことは分かったのだけれど、柴田の事と氷川のことが重なって、きっと多分、天海は矢野が推測するよりも遥かに、その不自由な気持ちをポーカーフェイスの下に飼っている。それは矢野には申し訳ないことだったが、同僚と飲みに行くだけでは発散できない重さだった。天海は別段男が好きなわけではなかったけれど、何分顔が人よりも少し整っていて、それはどちらかといえば中性的な意味合いで整っていたものだから、同性からそういう風に見られることもあった。女と付き合うのも男と付き合うのも、自分の中で大差がないことに気付いたのは、すっかり大人になってしまってからだったけれど、ストレス発散という意味合いでは、男を相手にする方が良かった。その方が頭の中を真っ白にできたし、何も考えなくて良かった。 「マスター、久しぶり」 「あら、ウミちゃんいらっしゃい」 知った顔でカウンターに座ると、丸坊主でオネエ言葉を使ういわゆるゲイっぽいマスターの山城(ヤマシロ)は、愛想よく笑って天海におしぼりを差し出した。この店で天海のことを皆ウミと呼ぶ。誰が言い出したのかもう覚えていないけれど、天海は都合が良いので黙ってそれに頷いている。この界隈では天海の本名も、どんな仕事をしているかも、どこに住んでいるかも、誰も知らない。誰も知らないことは、天海を解放させて、誰か知らない別人になったみたいな気分にさせる。それが堪らなく心地が良くて、天海はこの遊びを続けている。注文したジントニックがすっと目の前に出てきて、天海は目を伏せてそれを少しだけ飲んだ。 「ウミちゃん来ない間、皆寂しがってたわよ、お仕事忙しいの」 「ん、まぁまぁ」 「あぁ、そう。あんまり無理しないで、たまには顔見せてね」 「うん、今日、誰かいそう?」 あまり真剣に山城の話を聞いていない天海は、短くそう言葉を切って小首を傾げた。バーは薄暗くて誰もが顔を寄せ合って、小さい声でぼそぼそと喋って笑い合っている。マスターは天海の問いに、一瞬店内を見回すような素振りをして、口角を僅かに上げた。 「いるわよ、いっぱい」 「ふーん」 「でも、ウミちゃんが相手したことがない子はいるかしら」 「・・・見てくる」 天海はジントニックのグラスを掴むと、そのまま行く宛てなんかない癖に颯爽と店の奥へと入って行った。その背中を見ながら、山城は小さく溜め息を吐いた。 「マスター、マスター」 「んー?なんなの、上条(カミジョウ)くん」 カウンターの端でずっと常連客に掴まっていた、最近入ったばかりの大学生バイトの上条が、何か嬉々とした顔をしてこちらに寄ってきて、何となく山城は嫌な気分になった。常連の愚痴を聞かされるのならまだしも、その表情は好奇心丸出しだったからだ。 「今のって、今のって、ウミさんですよね?前、トキさんが喋ってた」 「あぁ、トキくんそんな話してたの、そうよー、あれがウミちゃんよ」 「かわいいですね、かわいいっていうか、美人系?」 「そうね、ウミちゃんはかわいいけど、あの男は食えないからアンタみたいながきんちょは相手にされないわよ」 「ひどい!なんてこと言うんですか」 「だってほんとのことじゃなーい」 あははと笑うと上条はムッとしたようにしたが、天海が消えた奥の方を、まるで天海の姿を探すみたいに目を凝らすように見やった。そんなことをしても無駄だ、きっと天海はもう今夜の男を見つけて店を出ている。今頃ホテルでも探しているのだろう。天海のハントの時間はごく短い。天海は鼻が利いて、ババは絶対にひかないなんてことを、常連は知った風な口調で、この間そういえばこのカウンターで山城相手に講釈を垂れていた。そんな風に刹那的に生きることしかできないことを、まるで天海自身が自覚しているみたいだ。山城はそれを知っていたが、もうずっと知らないふりをしている。

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