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第5話

翌日、天海はいつもの時間に出勤していた。昨日はほとんど眠っていなかったけれど、一日くらい眠らなくても、体が寝ていないという理由ではない理由で軋むくらいで、栄養ドリンクの一本でも飲んでおけば、天海にとっては同じことだった。自分の体は頑丈にできていると、自分の事ながら他人の事みたいに天海は思う。早朝、ホテルから自宅に戻ってシャワーを浴びて服を着替えて、まるでいつものルーティンをなぞるみたいに駐車場に車を止めた時間まで同じだった。始業時間の近いエレベーター前は、いつも誰かが立っていたけれど、今日は天海の他に誰もいなかった。始業までまだ時間があるから、はじまる前に一本煙草を吸ってからにしようと、ポケットからピースの箱を出そうとして、それがポケットに引っかかって、ぽろりと天海の指から零れた。煙草の箱はぽんと軽く跳ねて、後ろに落ちる。天海はそれを無意識に目で追った。 「はい」 すると天海が腰を屈めてそれを拾うより早く、それを長い指が拾って、天海の目の前に差し出した。手からすっと視線を沿わせて顔を上げると、そこには所員の織部(オリベ)が、グレーのスーツを着て立っていた。織部は天海と視線を合わせると、にこっとその人好きのする顔を綻ばせてそうするのが当然みたいに笑った。天海はそれに笑い返すことは出来ないで、どうすべきか考えながら、とりあえず差し出されたピースの箱を受け取って、取り出したのと同じポケットに仕舞いこんだ。 「ありがとう」 「いいえ、おはようございます、天海さん」 「・・・おはよう」 織部は天海の班ではなかったから、名前くらいは流石に聞いたことがあったけれど、そのひととなりは全く分からなかった。それでなくても他人に興味のない天海は、多分人より情報が入って来ないし疎い。その時顔を見て、確かにそう言えばこんな顔をした男だったと思ったほどだった。天海がくるりと織部に背を向けて、エレベーターの電光表示を見上げると、丁度地下に到着したところだった。目の前で扉が開く。中には誰も乗っていなかった。天海が乗り込むと、織部も当然みたいに乗り込んできた。地下には車が何台も止まっていたけれど、そういえば織部は車通勤だったのかなと、エレベーターの扉が閉まるのを見ながら天海はぼんやりと考えた。管理職は殆ど車通勤だったけれど、所員は珍しいような気がする。 「天海さん」 エレベーターの壁にもたれるようにして、後ろに立っている織部が不意に口を開いて、天海はふっと振り返った。織部が思ったより近くに立っていて、柄にもなくびくっと肩が震えた。織部はそんな天海の様子をまるで見ていないみたいに、にこにこと笑っている。 「昨日、何してました?」 「・・・昨日は残業してたよ、そのまま帰った」 「ふうん」 昨日飲んだジントニックと男の精液の味をほとんど同時みたいにぼんやりと思い出しながら、天海は奥歯をまた軽く噛んだ。朝出てくる前に一本吸って来たのに、もうニコチンが足らない。はやく着けばいいのに、エレベーターは今日に限って自棄にのんびりしている。その時天海の願いが通じたみたいに、チンと音を立てて目の前で扉が急に割れた。天海が早足でエレベーターを出ようとすると、後ろからぐっと腕を引かれて、進めなくなる。力の正体はひとりしかいない。天海が振り返ろうとすると、それよりも織部ははやくて、後ろから顔を近づけると、天海の耳の傍で囁くように言った。 「う・そ」 朝なのにやや薄暗いエレベーターホールの向こうに、明るい事務所の光をこちらに漏らすガラスの扉が見える。それを天海がじっと見ていると、じれったいみたいな動作で、天海の目の前でエレベーターの扉が閉まった。行き先ボタンを押されないエレベーターは止まったままピクリとも動かない。天海はそれからゆっくりと振り返った。織部は天海を見下ろして笑っている。 「あはは、良い顔、やっぱそそるなぁ、天海さん」 「・・・何の話」 「そんなに怒んないでくださいよ、昨日見ちゃったんですよ、俺。あなたのこと、ゲイバーで」 「人違いだろ」 もしかしたらこんなことが起こるかもしれないことを、天海はどこかで分かっていたし知っていたけれど、それでもあの真っ白になる感覚がやめられなくて、まるで中毒みたいにそれに縋っている。軽い口調で織部が話す昨日の自分とここでそんなこととはまるで無関係みたいなポーカーフェイスで働く自分は、余りにも違い過ぎてまるで別の次元に存在しているみたいだけれど、それは本当にそうだったらいいのにという天海の妄想でしかなくて、何時間か前、精液で汚れた体をシャワーで流して綺麗にしたみたいに、存在としては地続きであることを、天海は何故か今頃になって自覚していた。 「知らなかったなぁ、あのクールビューティーの天海さんがゲイだなんて」 「別にゲイじゃないけど」 「ね、これって誰も知らない?公表してないんでしょ、ばれたらまずい?」 「・・・別に困らないけど」 小さくそう言いながら、いつの間にか織部の追及を無視するのを忘れていたと思いながら、天海はがりがりと後頭部を掻いた。そんな風に織部には言ったけれど、自分の性的な嗜好がそんな風に歪んで伝われば、また良くない噂を立てられるに決まっていた。自分のことをそんな風に誰かが興味をもって話すわけがないと一方で思いながら、面倒臭いから隠していたほうが無難であるとも思いながら、織部のにやついた顔を見上げる。この男は一体何が狙いなのだろうと、天海は一応保身の方向で考えを進めた。 「遊ぶ金でも欲しいわけ」 「・・・あったま堅いなぁ、天海さん。そこもかわいいけど」 「なに、言いたいことがあるなら言えよ、面倒臭い」 やや投げやりみたいな雰囲気を漂わせながら天海はそう言うと、ふっと目を伏せる。その瞼の薄い肉の白さと長くて黒い睫毛。織部が昨日友達とふざけて行ったゲイバーで、男に肩を抱かれていた天海の痩せた肢体を、服の上から想像しながら、あからさまな視線を送っても、天海はまるで昨日とは別人みたいな鈍感さでぴくりともしない。あんなに簡単に男について行く癖に。 「俺と寝てよ、天海さん」 「・・・―――」 流石にそれには天海はびくりと体を震わせて、伏せていた目を上げた。それを正面から捉えて、織部はまたにこりと笑う。歴代付き合ってきた女は皆、織部くんの笑顔はかわいくてずるいと褒めてくれたから、織部はそれが自分の無邪気さを増幅させる手段であり、ある種の狡猾さの覆いになることを知っていた。けれどこの表情筋の硬い上司には、響いているのかいないのか不明だ。天海は何かを確かめるみたいに、その時織部の顔をじっと見たまま動かなかった。動かなかったけれど、それは多分何かを期待しているわけではなかった。それはなんとなく、その双眸に突き刺された織部にも理解できた。その全く動揺を表面から掬えない天海のことを、織部は笑った顔のままじっと見返していた。きっと断る手段を考えているのだろうと思っていたが、こちらがジョーカーを握っている限り、天海が逃げることができるエリアは狭い。きっとこのエレベーターなんかよりずっと狭いことを、織部は分かっていた。分かっていたから別に余裕だった。 「別にいいけど」 「・・・え?」 しかし、その時、天海は織部が全く考えていない言葉を発した。

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