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第6話
「・・・いいの、マジ?」
自分で言い出したことに対して、織部がまるで信じられないみたいに丸い目をぱちぱちと瞬かせるので、天海はそれに小さく溜め息を吐いた。織部が寝たいと言った時に、織部の狙いが分かったような気がしたけれど、こうして問い詰めてみると、それも真意がどうか疑わしかった。見られていたのは本当かもしれないけれど、こんな風に肯定されることを望んではいなかったのかもしれない。面倒臭い、一体どういうつもりでそんな変化球を投げてくるのだろう。天海は勝手に立たされたバッターボックスから、最早何でもいいから早く降りたかったし、この狭いエレベーターからも今すぐに逃げ出したかった。そう言う意味合いでは、どうでもいいし、面倒臭いし、露見しても構わないと言いながら、どこかで自分は後ろめたいことをしている自覚があるのだろうかと、ぼんやり思った。そんなこと考えたことがないけれど。
「そんなことよりお前ノンケだろ」
「ノンケ?」
首を傾げる織部のことをじっと見ながら、天海はまた溜め息を吐きそうになった。織部のことは良く知らない。夏目の班の人間で、まだ若くて別に天海の弱みを握ってこんな風に脅さなくたって、女の子に不自由をしていなさそうな容姿とその軽い物腰から、彼が自分以外の周囲のものを何となくなめてかかっているのは、天海にも推測がついた。ただからかいたかっただけにしては、こちらの事情に首を突っ込み過ぎているきらいがあるが、そういう好奇心を向けられたことが、今まではないわけではなかった。けれど天海はあまり、ノンケの男を相手にするのは好きではなかった。それが知り合いなら尚更のこと。その時の織部は、過去に天海に興味本位で声をかけてきた男たちによく似ている。良く似ていて、無個性だと天海は思った。
「ストレートだってこと、ヘテロって言えば分かるか」
「・・・あー、まぁ女の子としか付き合ったことはないけど」
「勃たないよ、俺に」
「心配するとこそこなの?ほんとかわいいね、天海さん」
さっきから無視しているが、織部は軽い口調でかわいいかわいいと三十路をとうに過ぎている天海に向かって言う。中性的な容姿をしている自覚はあったから、周りからそう言われることも慣れているといえば慣れていたけれど、あんまりにも短時間に連呼されて、天海はそれに少しだけ胸焼けがしてきた。勿論、織部が本気でそう思っていない、口先だけの軽口であることも、何となく天海が持って生まれてこなかった男らしさみたいな部分を馬鹿にされているみたいで、気分が悪かった。
「時々いるんだけど、ノンケの癖に興味本位で声かけてくる奴。でもそういうのは結局使い物にならない、だから俺はノンケの男とは寝ない」
「・・・経験ありってこと、ほんとえろいな、アンタ」
「分かったらもういいな」
天海はくるりと織部に背を向けて、エレベーターの『開く』のボタンを押そうとした。すると肩を後ろから強い力で掴まれて、その腕は動かなくなる。振り返るとそこにいるのは勿論だが織部で、天海は体を捩った。思ったよりその力が強かったからだ。
「なに、痛いんだけど」
「そんな勝手に決めつけないでよ、俺のこと」
「・・・お前は何も分かってない」
「やってみなきゃ分かんないじゃん。俺と寝てよ、天海さん」
「しつこい」
体を捻って織部の手から逃れようとしたけれど、織部はそれを許さずに、結局もっときつく締められただけだった。ひくりと喉の奥が鳴った。急激に天海は視界が狭くなるような気がした。近くにいるはずの織部の顔も影って良く見えなくなる。
「いたい」
「寝てくれたら皆には黙っててあげるからさ、アンタの事信頼し切ってる矢野さんとかにもさ」
「いたい」
相変わらずポーカーフェイスだったけれど、その時織部の軽口など聞こえていないのではないかと思うくらい、天海が一点を見つめて酷く切羽詰った様子で呟くので、慌てて織部はその手を離した。思わず結構な力で掴んでしまっていたことを、そうして悟る。織部の手から逃れた天海はふらりとよろけるみたいに後ろ向きに動いて、エレベーターの壁にとんと背中をつけて止まった。
「・・・―――」
「天海さん?ごめんね、そんな強く掴んでたつもりないんだけど・・・」
「こっちくるな」
また切羽詰ったみたいに天海が短く言葉を吐いて、織部の手が止まる。息が切れるようなことは何もしていないはずなのに、天海の唇からはぜいぜいと濁った音がしている。その頬は真っ青になっていた。さっきまで天海は普通に自分と話をしていたはずだった、それなのに一体どうしてしまったのだろう。織部が何も言えずに黙っていると、その時がくんとエレベーターが動き出した。まずいと思ったけれど、その時一体誰に、何の方向性でまずいと思ったのか、織部には自分でもよく分からなかった。ややあってエレベーターは1階に着くと、今まで強固に閉じられていたのが嘘みたいに、ぱっと扉が開いた。すると俯いて呼吸を繰り返していた天海は、扉が開いた瞬間、ふらっと吸い込まれるみたいに外に出て行った。
「うわ!あれ・・・?」
すると多分1階でエレベーターを呼び出したらしい、須賀原が開いた扉の向こうに立っていて、扉が開くや否や出てきた天海にびっくりして大声を出している。
「ちょ・・・天海さん!」
なんとなくそのままにしておいてはまずいと思って、織部がその背中を追いかけようとすると、状況の読めない須賀原に道を塞がれてしまう。
「・・・織部?・・・アマさん?」
「スガ、ちょっとどけよ!」
「え?は?ここ1階だぞ」
朝の眠気がまだ残っているような顔をして、須賀原はクエスチョンマークを頭の上に浮かべる。いつまで経ってもこちらに進路を譲ろうとしない須賀原に、織部は苛々しながらその肩を突いて、エレベーターから外に出てみたが、天海はもう建物の外に出てしまったのか、そこから見える範囲にはどこにもいなかった。織部はそれを確認した後、盛大に舌打ちをした。
「びびらせるだけのつもりだったのに、失敗した・・・」
「なに?織部、乗らないなら閉めるぞ」
背中に欠伸を噛み殺したような呑気な須賀原の声が当たって、織部は苛々しながら振り返った。須賀原はまだ眠そうな顔をして、眉間に皺を寄せる織部のことを不思議そうに見ている。あんな青い顔をする天海のことは見たことがなかった。尤も、班も年齢も立場も違う自分は、事務所で働いているだけの天海のことをさえも、そんなに沢山知っているわけではなかったけれど、天海はいつも事務所では背筋を伸ばして、誰に何を言われてもクールでドライで、声のひとつも荒げない。その代わりにこりともしないで、何が起こっても自分とは無関係みたいに淡々とただ凪いでいる。その天海が呼吸を荒くして、その時一体何故強い口調で織部のことを制したのか、制すつもりだったのか、考えても織部には分かりそうになかった。
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