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第7話
織部のせいで一度建物の外に出てしまった天海は、遠回りすることを余儀なくされて、自席につけたのは始業時間が少し過ぎてからだった。事務所の中には織部の姿もあったけれど、グレーのスーツの背中は、思ったより背筋が伸びていて、天海に朝からあんなことを呟いた人間には見えないから不思議だった。でもそれは多分天海自身も同じで、事務所の人間は誰も、涼しい顔して仕事をしている天海が、夜になるとゲイバーに出向いて、今日限りの男を漁っているなんて思わないだろう。暫く大人しくしておいたほうが良いかもしれない、氷川との仕事のせいで、これから蓄積するだろうストレスを考えると、そのはけ口がなくてうんざりしてくるが、自分の保身のためには仕方がない。保身なんて、なんの役に立つのか分からないが。考えながら天海は小さく息を吐いた。煙草を吸ってニコチンを摂取するのすら、忘れてしまっている。
「アマさん、おはようございます」
そう声をかけられて、天海がぼんやりしたまま顔を上げると、そこには矢野が立っていた。長い髪を後ろで緩くひとつ結びにしている彼女は、今日もにこにこと愛想が良い。昨日あんなに遅く帰ったとは思えないほど、それは健康的な笑顔に見えた。
「おはよう」
「昨日、すがちゃんへこんでましたよ、アマさんからもフォローいれてあげてください」
「・・・昨日しただろ」
「足らないみたいですよ、あれですがちゃん繊細なんで」
笑いながらただ声は潜めるように矢野はそう言って、くるりと踵を返すと自席に戻って行った。天海はそれに小さく溜め息を吐いて、ちらりと矢野の隣に座っている須賀原を見やった。須賀原は猫背で必死にパソコンを叩いている。その頬はどこか不健康そうな色をしていた。昨日のことは確かに須賀原のミスに違いなかったから、残業を強いられはしたものの、結果的には真中のチェックも通ったのだから、それでいいのではないだろうか、それ以上のことを自分にしろと言うのはお門違いな気がする。一方で、矢野の言いたいことも分からなくもなかったけれど、何故そんなことを自分がしなければいけないのか分からない。そんな真中みたいなことを、どうして自分が。メンバーの精神衛生を管理するのも管理職の仕事なのだとしたら、自分の精神衛生は、一体誰が管理してくれるのだろう。真中はあんな風に冷たくあしらうし、一体誰に縋ればいいのだ、こんな気持ちを一体誰に分かってもらえばいいのだ、自分は。考えながら、天海は気付けば奥歯を噛んでいる。
午後から、天海は氷川に会うために事務所を出ていた。氷川の姿はテレビや雑誌で良く見かけるけれど、そういえば実際に対面するのは久しぶりだと思った。たまに氷川は気まぐれを起こしたみたいに事務所にもやって来るが、タイミングでも悪いのか、天海はその氷川を見たことは一度もなかった。ただ氷川の名前がある仕事でも、実際には氷川は関わっていなくて、名前だけ提供している場合があって、そういう時は勿論、現場で氷川の顔を見ることはなかった。名前だけでも貸してほしいなんて、すごい商売だ。氷川が真中デザインにいたのは、ほんとに短い間だったけれど、その時から氷川は確かに化け物みたいだった。化け物で天才だった。随分前の記憶を呼び起こしながら、天海は真中が送ってくれた資料を捲って、ひとりで考えていた。氷川と会うのが億劫なのはきっと、氷川みたいな天才の前で、自分がいかに凡才であるかということを、自覚させられるのが嫌なのだ。自分は柴田にすら敵わないのに、氷川みたいな圧倒的な存在の前に引きずり出す選択をする真中のことが、本当に恨めしい。
(何で俺なんだ、自分でやるか、柴にでもやらせろよ)
また奥歯を噛む。柴田がベランダまで追いかけて、何やら天海に言って来たことのことを思い出す。柴田があの時言った通り、なんとかという画家が個展を開くから、その空間プロデュースをするらしい氷川のヘルプの仕事が、知り合いの事務所だからと回って来たらしかった。確かにその仕事は今まで氷川が受けてきた仕事のことを考えれば、酷く地味だったし規模も小さかった。カリスマなんていう俗っぽい名称で呼ばれていた頃と、今の氷川の姿が変わってきたからと言って、氷川は今こんな仕事をしなければいけないほど、落ちぶれてもいないだろう。むしろきっと、落ち着いてちゃんと大人の男になって来た氷川のことを、業界は評価していると思う。それともただの気まぐれか、今暇なだけなのか、考えても分からなかった、天才のことは。
(来ないんだろうな、氷川は。だとしたら結局俺がひとりでやることに・・・―――)
それに氷川のクレジットがつくのかと思ったら、それはそれでゾッとした。氷川の評価に関わる仕事ではないことは分かっていたけれど、それでなくても天海はそんなことはごめんだったし、降りることができるなら、今すぐ降りたかった。無理なのは分かっていたが。
いつもは結婚式場として使われているらしい現場に着くと、施設の人間に丁寧に挨拶をされて、氷川さんが来るまで少し待っていて下さいと控室のようなところに通されたが、こんなところで待っていても、氷川は来ないから無駄な時間であると、天海は喉まで出かかって言うのを止めた。それで相手に変な顔をされたくなかったから、大人しく言う事を聞いて、無駄に広い控室で出されたコーヒーを飲んでいた。
「すみません、天海さん」
ややあって、ここに案内してくれた施設の人間が、顔を出して天海のことを呼んだので、ようやく氷川に繋がって、氷川が来ないことが分かったのかと思って、天海が腰を上げると、彼は天海が想像していたこととは全く違うことを言った。
「氷川さん、来られました」
「・・・え?」
彼の後ろから、氷川了以はあまりにもあっさりとやってきた。室内なのに大きなサングラスをかけて、ベージュのトレンチコートを着た彼は、天海が時々テレビや雑誌で見かける彼と余りにも相違なくて、それが逆に現実的ではないような気がした。例えば、それが氷川の寄越した氷川の偽物で、周りの人間を納得させるための道具だと言われたたら、それはそれで納得してしまいそうな、そんな様相で、しかし氷川は天海のそんな頭の悪い想像とは全く違うところで、さっとサングラスを取ると、その不思議な色をした瞳で、天海のことを見た。懐かしいと、天海は瞬時に思った。氷川のその姿は、あれから何年ももう経っているにも拘らず、やっぱり同じ事務所で働いていた頃のことを、天海に想起させた。
「・・・氷川さん」
何故か後輩である氷川に対して敬称をつけてそう呼ぶと、ご無沙汰していますと続けようとして、天海はその時少しだけ躊躇した。天海は一方的に氷川のことを認識していたが、氷川はあの頃同じ事務所で働いていたことなんて、覚えているのだろうか。その後も真中と一緒に氷川の仕事のヘルプをすることはあったけれど、こんな風にふたりで向かい合ったことはない。すると、氷川の方が先にその形の良い唇を割った。そして何故か、彼は同時に眉間に皺を寄せたのだった。
「なんだ、天海か」
「・・・?」
眉間に皺を寄せて、氷川が辛辣にそう呟くのを聞きながら、天海はてっきり氷川は自分の名前なんて覚えていないと思っていたが、意外とそうでもないことに少し驚いていた。露骨にそう辛辣にされたことに対して、もう少し何か思ったほうが良いのかもしれないと思ったけれど、思ったほうが良いのかもしれないなんて思っているようでは、自分はきっと心なんて動かないのだろう。
「真中か柴田さんだと思ってた」
そうして氷川が悪びれる様子なくそう続けたのを、天海はなんだか自分とはまるで関係のない、他人事のようにして聞いていた。もしかしたら本当に、天海にとっては他人事でしかなかったのかもしれない。そうして何でもないような顔をする天海のことを、現実感のない氷川の方が、何故か苛々するみたいに一層眉間の皺を深くして見ているのが不思議だった。
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