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第8話

「真中か柴田さんだと思った」 「はぁ・・・すみません」 天海は氷川の露骨なそれに対して、他に何と言ったらいいのか分からず、とりあえず口先だけで謝った。するとそれに苛々したみたいに氷川のこめかみがぴくりと動いた。そんな風にこの天才が自分の、自分なんかの言葉で、感情を動かしたりすることが、天海には酷く不自然で不思議に思えた。氷川は酷くぞんざいな素振りで持ってきた黒い鞄を机の上にどんと置いて、外したばかりのサングラスを黙ってさっとかけた。室内なのにきっとコートも脱がないでいるということは、氷川はこの後予定があって、すぐ出るつもりでいるのだろうと、意識して天海は注意深く現実的なことを考えていた。 「相変わらずだな、お前」 「・・・は?」 氷川は視線を落としてぽつりと呟いた。相変わらずとはどういうことだろう、社交辞令のお変わりなくという奴と一緒なのだろうか、考えながら、氷川は相手に対してそんなことを、例えば社交辞令やおべっかみたいなことを、言う事が出来るのだろうかと思った。 「謝んなっつってんだよ、何とも思ってねぇ癖に謝ってんじゃねぇよ」 「・・・すみません」 言われた傍から天海はそう言って、氷川が苛々したみたいに机の脚を蹴るのを見ていた。それでは氷川の言っていることを肯定することになるのだが、天海には否定するだけの理由もないような気がして、結局そのままにしてしまっていた。そんな些末なこと、氷川にとっては些末なこと、放っておけばいいのに、どうしてそんなことでいちいち突っかかって苛々するのだろうと、天海はそれを見ながら思う。天才は繊細だから扱いが難しい。考えながら、けれど他にこの場にふさわしい言葉はなくて、だからといって黙っているわけにもいかないのだから、氷川のそれは天海に対して無茶な注文でしかなかった。 「俺、お前のこと嫌いなんだわ」 「・・・はぁ」 「いっつも死んだ魚みたいな目ぇしやがってよ」 「・・・―――」 サングラスのせいで、その時の氷川の表情は分からなかった。天海が氷川のことをあまり知らないみたいに、氷川はもっともっと天海のことを良く知らないはずだった。それなのに流石にそこまで言われる筋合いはないと思ったけれど、何となく天海には氷川に好かれていないという自覚があったので、今更それを明らかにされたところで驚きはしなかったし、別にこの天才の肩を掴んで何故と問い詰めるだけの理由もなかった。氷川にとって天海が些末な存在であることと同じみたいに、どうせ同じ次元で仕事などできないのだから、天海にとってもそういう意味では氷川はどうでもいい、些末な存在であったのかもしれない。そういう考えが露見しているのかもしれないなと思ったけれど、今更もうどうしようもないし、取り繕ったところで氷川相手にはどうせ無意味だと思ったので、天海は黙っていた。もう黙っているのが一番いい選択に思えた。 「なんとか言えよ、ここまで言われて黙ってるか、フツー」 「・・・―――」 口を開いたけれど、天海は何を言えばいいのか分からなかった。開いた口から何も言葉が出てこないで、天海は諦めて口を閉じた。それを見て氷川は、サングラスのせいで表情は良く見えなかったけれど、きっと眉間に皺を寄せて、舌打ちをした。 「いいわ、もう」 「・・・はぁ」 呆れたように氷川はそう言って、置いたばかりの鞄を取って部屋の扉を開けた。天海は慌てて氷川の後を追いかけた。氷川がこのまま出て行くつもりなら、話をしておくことはきっと沢山あった。氷川が例え自分のことを毛嫌いしていたとしても、天海だって氷川のことが苦手でできれば一緒に仕事なんかしたくないと思っていたとしても、やらなければならないのが仕事だった。 「俺、とりあえず中だけ確認してもう出るから」 「はい、分かりました」 「来週も来るからそれまでに詰めといて、何かあったら連絡しろ。時間かかるかもしれないけど折り返すから」 「・・・分かりました」 式場の長い廊下を歩きながら、氷川は一度も振り返らないまま、後ろから天海がついてきているのを、まるで後ろの目で見ているような正確さで話した。そうやって一度仕事モードに入ると、さっきみたいな子どもみたいな言動が嘘みたいだと天海は思ったけれど口には出さなかった。それにしても氷川はこの仕事にちゃんと関わるつもりでいて、忙しいスケジュールを縫ってちゃんと現場を確認しに来たりしていて、天海にはそのことの方がむしろ不思議だったけれど、それを氷川に聞くことも出来なかった。 「お前、この仕事小せぇ仕事と思ってんだろ」 「は・・・―――いいえ」 「いい、嘘吐くなよ。天才氷川了以の仕事じゃねぇと思ってんだろ」 「・・・いえ、別に」 自分で自分のことを天才なんて頭の悪いライターみたいに呼んでしまう氷川のことを、天海はただ後ろから見ていた。ここに来る前、真中にそんなに自信がないのかと所長室で言われた時、そんなことはないと確かに思ったけれど、氷川に比べたら自分は自信なんてひとつもないに決まっていた。自分のことをそんな風に俗っぽく呼んでしまう、氷川了以に比べたら。 「だから嘘吐くなよな、鬱陶しい」 「・・・すみません」 謝ってからはっとしたけれど、氷川は後ろを振り向くことなくどんどん行ってしまって、天海はそれに置いて行かれないようについて行くのに必死だった。 「確かに規模は小さいかもしれないけど」 「これは俺の大事な仕事だから」 「お前に任せるのなんだか気ィ進まねぇけどしかたねぇ」 前を向いたままそうやって一方的に氷川は喋りつづけて、そこでやっとくるりと振り返った。小さい顔にサングラスが余っている。考えながら天海はそれを見ていた。雑誌やテレビで未だに時々見かける氷川了以は、相変わらず美しくて、いつ見ても偽物みたいな微笑を張り付けていた。その時天海の目の前に立っている氷川は、一度も天海にそんな風に柔らかく微笑んだりはしなかったけれど、相変わらず美しくてやっぱり偽物みたいだったけれど、多分それは現実だった。天海の心の柔らかいところを簡単に突き刺してしまう氷川は、現実に違いなかった。だからこんなに痛いに決まっていた。 「しっかりやれよ、これは俺の大事な仕事なんだからな」 「・・・分かりました」 少しだけ頭を下げて、天海はそう呟いた。

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