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第9話

事務所に戻るとほとんどの所員は残っておらずに、天海の班も誰も居らずにひどくがらんとして見えた。残っている事務処理でもやって帰ろうかと思って、一応事務所まで帰って来たけれど、なんだかその薄暗い事務所を見ていると仕事をする気になれずに、天海は退勤処理だけ済ませるとエレベーターを使って地下の駐車場まで下りてきた。今日は氷川のことで思ったより体力を使ったと思いながら、遠隔操作でシーマの鍵を開ける。駐車場の奥で愛車のヘッドライトが一瞬だけぴかっと光った。 「天海さん」 自分しかいないと思っていた空間に、そんな風に声が響いて天海がぱっと振り返ると、エレベーターの前に織部が立っていた。なんだかデジャブを感じると思いながら、天海はそれに一体どんな顔をすべきか考えていた。織部はにこにこと愛想よく笑って、ひょこひょこと天海に近づいてくる。疲れた頭で、天海は織部が一体何をしたいのかを考えたが、考えるだけ無駄だった。 「帰んの遅くないですか、俺めっちゃ待ってたよ」 「・・・お疲れさま」 織部の話を半分以上聞き流しながら、とりあえず口先だけでそう言って、車の扉を開けようとすると、慌てた様子で織部が近づいてきた。 「ちょっと待ってよ、天海さん!俺がここでどんだけ待ってたと思ってんだよ」 「・・・帰れよ、明日も仕事だろ」 「冷たいこと言わないでくださいよ、天海さん」 織部は天海のシーマの助手席の天井に両腕を凭れ掛かからせるようにして、運転席の扉を開けたままの天海に向かって意味深に笑った。天海はそれを見ながら、彼が何をしたいのかもう一度考えようとしたけれど、疲れた頭はあまりうまく機能しなかった。 「黙っとくからやらせてって、別にそんなたいした取引じゃないだろ、アンタにとって」 「・・・だから朝も言ったけど、俺はノンケとは寝ない」 「じゃあばらしちゃっていいの、皆軽蔑するよ、アンタの事。真中さんも矢野さんだって」 「・・・―――」 言いながら織部が口角を上げる。どこかで見たような顔だと天海は思ったけれど、それが誰なのか分からなかった。軽蔑するだろうか、真中の顔が浮かんだけれど、その表情はどこか浮かなかった。真中はいつの頃だったか、天海の前ではそんな顔しかしなくなった。もう軽蔑ならされている気がする、十分。矢野の顔も浮かんだ。流石に矢野は女性であるし、軽蔑くらいはするのだろうなと思ったけれど、別段そんなことはどうでも良かった。天海の周りにはそういうどうでもいいことで溢れていた。大事なものなんて自分にはひとつもないのだと、天海は薄暗い駐車場で、部下に変な風に脅されながら、ゆっくり自覚した。 「別に、居辛くなったら辞めたらいいだけだろ」 「辞める気なんてない癖に」 「・・・―――」 そうだろうか、辞めることなんてできないのだろうか。柴田を見てあんなに苦しくなって、格好悪く八つ当たりをしても、自分はここ以外の場所には行けないのだろうか、そう思ったら急に息が苦しくなった。本当に苦しくなったら辞めたらいいと自分に言い聞かせてきたけれど、天海は自分が本当に苦しい時にそれに自分で気付く自信がなかった。今だってそんな不確かな呪文で、何となく痛みを分散させようとしている。こんなことでは本当に苦しい時が来たって、天海はまたそれをもっと苦しい時が来るための言い訳にしかできない。急に俯いて黙った天海を見ながら、織部は首を傾げると口元だけ器用に笑みを作った。 「図星だ、ウミちゃん」 はっとして天海は顔を上げると、口元だけを歪めた織部の顔とぶつかる。 「ウミちゃん」 「・・・―――」 「聞きましたよ、ウミちゃんって、あの辺での天海さんの名前なんだって?」 織部はまるで何でもないことのように呟いて、天海はそれを受け入れることが出来なくて混乱した。はじめに天海をそう呼んだのは一体誰だったのだろう、自分からそう名乗ったのだろうか、そうでなければ天海をウミなんて誰も呼ばないだろうけれど、自分からそんな風に名乗った記憶は、天海の中にはもう残っていなかった。天海はひっそりこっそり行っていたつもりだったが、ヘタに綺麗な顔をしているだけに、aquaでは天海のハントは話題のひとつにいつも昇っていて、いつの間にか常連客には周知の事実になっていたし、噂を聞きつけてaquaまで出向いたという男を捕まえて、ホテルまで連れて行ったこともあった。有名になることは天海の身辺を脅かすことにもなったので、そろそろ店でも変えたほうが良いのかもしれないと思っていた。思っていたが、正直面倒くさくて、そんな保身にはまた意味があるのかと、天海は無意識に考えてしまう。 「かわいい顔して毎回違う男捕まえては」 「・・・―――」 「毎晩精液搾り取ってるんだって?」 「・・・―――」 「誰でも良いなら俺でもいいでしょ、ウミちゃん」 凍りついた背筋がゆっくりと溶けていく。天海は運転席の扉を開けた。笑った顔の織部は、それを見ながらそれを一瞬で真顔に戻した。もう残りの手札はない。ここで振り切ったらもうこの男は追いかけては来ないだろう、そもそもどうしてノンケの男の気をこちらにはそんな気はまるでないのに引いてしまうのか、自分の中の何が男のセンサーにそんな風にあからさまに触れたりするのか、天海にはよく分からない。運転席に滑り込むと扉を閉める。焦ったように織部が助手席の扉に手をかける。一度引くとガチリと音がしてロックがかかっているのが分かった。天海はボタンを一つ押してそのロックを内側から解除する。織部がもう一度焦ったように扉を引いた時、それは簡単に開いた。そのことに扉を引いた織部自身が一番吃驚しているようだった。 「・・・天海さん」 ウミちゃんと揶揄するのを忘れたように、織部は吃驚した顔のまま、恐る恐る車内を覗き込む。あんなにさっきまで自信に満ち溢れて笑っていたのが嘘みたいだと、天海はその顔を見ながら思った。ちょっと脅かしたらそのまま帰ってしまうかもしれない。それが自分にとっていいことなのか悪いことなのか分からないけれど、考えながら天海はシートベルトをつけた。 「そこまで言うなら覚悟はあるんだろうな」 「・・・え?」 「精液搾り取られる覚悟」 「・・・―――」 今度それに黙り込むのは織部の役割だった。なんだかしつこく朝から纏わりついてくると思っていたけれど、彼が本気ではないことはその軽い物腰や口調からは明らかだった。けれどそれが天海には好都合だったし、今日はaquaまで行く手間が省けたと考えれば、それはそれでよかったのかもしれない。確かに天海はaquaに度々ハントに出向く時、後腐れない相手を選んでいるだけで、他の事なんてどうでも良かった。そう言う意味では、織部の言う『誰でも良い』で間違いないような気がした。助手席の扉はまだ空いたまま、織部はそこで逡巡している。手を離せと、天海は頭の中で一度呟いた。手を離して踵を返して逃げれば、こちらからは追いかけたりしないのだから。けれど天海のそんな願いは空しく、織部は助手席の扉を持つ手にぐっと力を入れると、それを開いて助手席にすとんと腰を据えた。暗がりに織部の表情は和らいでいる。 (上等だ、ガキ)

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