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第10話

「さっすが、管理職は違いますねぇ、金あるんすねぇ、こんなマンションに住んでるなんて」 途中で降ろせと言われたら降ろしてやるつもりだったのに、結局織部は最後まで何も言わなかった。ホテルとどっちがいいのか少し考えたが、今からホテルを探して行くのももう面倒臭くて、自分の家の方が近くてこちらにしてしまったが、余りプライベートを曝け出すのは良くなかったかもしれないと、天海の部屋をうろうろしてはしゃぐ織部を見ながら、天海はふうと溜め息を吐いた。そももそもプライベートで一番デリケートな部分は、織部によって勝手に暴かれたりしているので、最早何を取り繕っても意味はない気がするのだが。天海は事務所からほど近いタワーマンションの一室に住んでいたが、それは単純に家族も他に大事にするものも何もない天海は、給料の使い道がほとんどないせいだ。だからほとんど眠るために帰る家、時々はホテルに泊まるせいで、朝服を取りに帰るくらいにしか帰らない家、に毎月結構なお金を払っている。それを勿体ないと思いながら、けれど他に使いようもなく、天海は時間みたいにそれを持て余している。 「お前、酒飲めるんだっけ」 「酒?あぁ、まぁ、人並みには・・・」 ジャケットだけ脱いで椅子に掛けて身軽になった天海は、キッチンに入ると冷蔵庫を開けてビールの缶をふたつ取り出した。薄型の大型テレビにはしゃいでいた織部は、天海が呼ぶとひょこひょことやって来て、天海がビールを渡すとそれをにこにこ顔で、けれどどこか腑に落ちていない顔で受け取った。天海はもう一本を自分で飲もうかと思ったけれど、それをカウンターの上に置いて、自分は最近大事に飲んでいる貰い物のワインを開けてワイングラスに注いだ。そしてそれを立ったまま飲み干す。 「良い飲みっぷりですね、天海さん」 「お前も二缶くらいは飲めよ」 「あぁ、いただきます・・・でもなんで、酒?」 「飲んで酔っ払っておかなきゃ、こんなこと素面でできないだろ」 「・・・―――」 天海が立ったままキッチンで飲んでいるので、織部も座ることが出来ずに立ったままビールを飲んでいる。それに気付いた天海は、キッチンを出てソファーを指さした。織部は自分の飲んでいる缶と、天海が差し出したもうひとつの缶を掴んで天海の後についてくる。 「天海さん、いつもこうなんですか、やる前に飲む人?」 「・・・」 「あ、でもバーでひっかけたら大体皆飲んでるか・・・」 殆ど独り言みたいに織部が呟くのを、天海はワイン越しに見ていた。勿論織部の言っていることも、半分以上は正しかった。酒でも飲んで頭の中を多少ぼんやりさせないと、こんなことはやっていられない。けれど天海に関して言えば、酒を幾ら飲んでもむしろいつもより目の前の霧が晴れるだけで、その回路を鈍らせることなんてできなかった。昔からそうだった。飲み会となると、周りの皆が次々ダウンしていく中、天海はひとりで飲み続けていた。昔からだからきっと体質なのだけれど、酔っぱらって簡単にタガが外れるような人間であれば、夜な夜なゲイバーに男を漁りに行かなくても良かったかもしれない。 「天海さん?」 「・・・別にそう言う意味じゃないけど」 「そういう?どういう?」 「お前はノンケだろ」 何かの意志を持って伸びてきた手を振り払うようにして、天海は空になったワイングラスにワインを手酌で注ごうとして気付いた。もう瓶の中にほとんど残っていなかった。天海はひとりでそれに小さく舌打ちをする。こんなものでは飲んだうちに入らない。 「ノンケノンケって、俺が女の子としか付き合ったことないことって天海さんにとってそんな大事なことなの?」 「そうじゃない、別にそれはどうでもいい。朝も言ったと思うけど、お前が思ってるよりもっとグロいことだ。男相手に勃つなんて、素面では絶対に無理だ」 「・・・そーかな」 ぽつりと織部が言って、そっと手を伸ばして天海の手を握った。天海はそれをもう一度さっきみたいに振り払おうとしたけれど、その時織部の手の力が強くて、それには敵わなかった。しゅんと大人しくなる天海の手を見ながら、織部はくすりと笑った。 「天海さんは俺の事なんて知らないと思うけど」 「天海さん、入社式出てたでしょ。俺あの時から天海さんの事ずっと気になってて」 「まぁ成り行きだったけど、結果オーライっていうか。全然勃つからそんな心配しないでよ、天海さん」 手を握られるなんて久々だと思いながら、その生ぬるい温度が決して気持ち悪くはなかった。全然酔っぱらうことのできない天海は、残り少ないワインを飲み干した。織部の入社式の事なんて、天海は全く覚えていない。そもそも織部が何期なのかも知らないし、誰と同期なのかも知らない、ただ夏目の班の所員だという事しか知らない。何も知らないのだなと、天海はその時改めて思った。何も知らない相手とこうして向かい合って手を握られて深夜に自分のマンションで酒を飲んでいるなんて、一体何が起こってこうなっているのだろうと、冷静な部分が問う。何にも知らない相手をホテルまで連れ込んでいる時と、それは一体どう違うのだろう、それとも織部が言うみたいに何にも違いなんてないのだろうか。 「天海さん、キスしよう」 「・・・―――」 低めのガラスのテーブルに、織部がビールの缶をぽんと置いて、グラスの一つでも出せばよかったと、天海は考えていた。腕を引っ張られて、織部が慣れた様子で天海の体を引き寄せる。そんな風に女の子相手にやって来たのだろうなとこちらに簡単に思わせるくらい、それは手慣れた様子だった。織部の口元が笑っている。ぼんやりしていたかった、そのお互いの輪郭が分からなくなるくらいに。 「やめろ」 「・・・天海さん?」 織部の生温かい手を振り払って、天海はソファーから立ち上がった。織部が不思議そうな様子で、振り払われた両手は行き場所を失って手持無沙汰になっている。何となく、天海は冷静な部分で分かっていた。織部はノンケで普通の男だったし、何より職場の後輩であり部下だった。そんな手近な男に手を付けなければならないほど、こちらは相手に困っていなかったし、何より先々のことを考えると面倒になりそうなことは、天海自身がよく分かっていた。それなのにどうしてこんなことになっているのだろう、もう引き返せない。天海はひとつ息を吐いて、努めて冷静になろうとした。織部が自分でそう言ったみたいに、本当に自分が天海がゲイバーで引っかけている男たちと変わらないと思っているのなら、本当に思っているなら、天海だってそう思うしかなかった。そう思ってそう接するのが、天海にとっては一番の策に思えたし、きっとそれは織部にとっても。 「風呂入ってくる」 「・・・え、あ・・・あぁ、はい」 「お前はもうちょっと飲んでろ、ちゃんと酔っぱらえ」 「・・・ちゃんとってなんだよ、天海さん」 そう言ってふふふと織部が笑ったのを、天海はリビングに続く扉を閉めながら聞いていた。気付いていたのにその時制御しなかったのは、この先の快楽のせいか、それとも別の何かのせいだったのか。天海は奥歯を噛んでバスルームに向かった。

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