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第14話

洗面所の鏡には、見慣れたいつもの自分の顔が映っている。口の中に溜まった歯磨き粉を吐き出すと、口をしっかりと濯いだ。口を開けて、それから歯を噛み合せて、それからもう一度口を開いて確認する。真っ白の歯にピンク色の舌。磨き残しはないようだった。それからシャツの前を引っ張って、皺を綺麗に伸ばす。事務所は特別服装の規定がなかったが、天海は管理職なのでそれなりに外部の人間とコンタクトを取ることも多かった。天海は体の締め付けがない結構ラフな格好でありながら、それなりにきちんとした格好に見えるものをいつも選んで着るようにしていた。今日も氷川と打ち合わせに行かなければいけなかったので、ノーカラーのシャツに、グレーのカーディガン、紺色のパンツという色味のない格好で、今日は鏡に映っている。 (・・・そろそろ起こすか) 洗面所を出てリビングに戻る。そのまま寝室に行こうとして、ふと思い立ってリビングの壁にひっそりと佇んでいるお掃除ロボットの電源を入れた。昨日織部に潔癖症と言われたが、別段天海自身は潔癖症な自覚はなかった。本物の潔癖症はきっと男のものをいきなり咥えたりしないだろう。天海はただ掃除機が好きで、色々用途に合わせて買い集めているだけなのだ。お掃除ロボットは僅かな起動音がして、ややあって充電器から離れていく。それを見届けてから、天海は寝室に足を踏み入れた。キングサイズのベッドの真ん中に、足と手を折り畳んで何故か狭いスペースで器用に眠る織部の姿があった。天海はそれに音もなく近づいていって、その肩を掴んで揺すった。織部は昨日天海が中途半端にしか脱がせてなかったシャツを邪魔だったのかいつの間にか脱いでいて、ほとんど全裸に近い格好のまま眠っていた。よくもまぁこんな良く知らない人間の家の中で、そんな風に無防備に眠ることができるなと、天海は些かその図太い神経に感心する。 「・・・んっ」 「起きろ、織部」 名前を呼んで、天海が織部の肩を何度か叩くと、織部が急にぐるりと寝返りを打って、天海の方に顔を向けた。寝息もほとんど聞こえないほど熟睡していた割には眠そうな、疲れたような顔をしている。織部がその眠そうな目をぱちぱちと瞬いて、何故ここに天海がいるのか分からないみたいに、不思議そうに天海のことを見上げる。そして寝ぼけたような顔をしたまま、ぐるりと腕を回してベッドの端に腰掛ける天海の腰を掴んだ。ぴくりと天海の手がそれを察知して止まる。何となく織部は、次の行動の予測がつかないから、天海は少し苦手だと思った。そうやって次の行動が分からない分、自分はそれに振り回されている気がする。 「おはよう、天海さん」 「・・・おはよう」 「今何時?もう出勤時間?」 「いや、6時」 まるで何度も天海と朝を迎えたことがあるみたいに、甘えるみたいに織部が擦り寄って来るのに、天海はそれをどうしたらいいのか分からないので、制止をかけなければと思いながら、何故かそれをすることも出来ないでそのままにしていた。天海が相手をしているバーの人間は、遊び慣れていたし天海との距離感を分かった男ばっかりだったので、こんな風にされることがなくてただ単に、新鮮で、その新鮮さに天海はどうして良いのか分からず、ただ戸惑うことしかできなかった。戸惑うことで織部に好き勝手な振る舞いを許してしまっている自分も、何となく嫌だった。誰かに行動や言葉に、そんな風に自分が影響を受けるなんて知らなかった。そんなことと自分は全く別次元であると、天海はずっと思っていたからだ。 「6時?なんで、起こしたんだよ、もうちょっと寝かして」 「・・・いや、お前一回家に帰れ」 「はぁ?なんで。つか、天海さんのせいなんだけど。何回するんだよ、寝不足・・・」 「昨日と同じ服で出勤するつもりか」 言いながら織部の手を逃れて、天海は意識的に織部から距離を取るつもりでベッドから立ち上がった。織部もそれを追いかけるみたいに、眠たくてだるい体を半分起こしてベッドの上に座る。その表情はやっぱり優れなくて、まだ眠たいのに起こされた子どもみたいに不貞腐れたようにぶすっとしている。ベッドの側には昨日天海が取ったネクタイやシャツ、スラックスが散り散りになって落ちている。天海は丁度足元に落ちていたシャツを拾って、織部に向かって放り投げた。それがぽすんと織部の目の前に落ちる。いつの間にかすっかりしわくちゃになっていた。それを見ながら織部はくすりと笑って、それを取ってすっと腕を通す。 「そんなこと誰も気にしないと思うけど。天海さん細かすぎ」 「・・・」 それには何も言えなかった。本当に織部の言う通りかもしれなかったから。天海が黙っていると、織部は口ではそんな風に言いながら、ベッドの側から次々に自分の残骸を拾い集めて、ぱっぱと身支度を整え始めた。それを見て、天海はゆっくり安心していた。やっとこの男が部屋から出て行く、そのことに自棄に安心していた。やっぱりどう取り繕ってみても、織部は会社の人間で、天海のこんなところは知らなくていい人間のはずだった。その焦燥が後になってこんな風に押し寄せてくるなんて、天海は予想外だった。多分もう少し考えれば分かるはずだったのに、考えるのが面倒くさかった。 「望み通り寝てやったんだから、もうごちゃごちゃ言うなよ」 「・・・はは、寝てやった、ねぇ」 言いながら笑って、織部はそこで一旦言葉を切った。そしてベッドの側に立っている天海のことを、下からじっと見上げた。昨日もこんな風に、織部は天海のことを下から見上げていた。無意識に昨日のことを思い出そうとしている自分が嫌だった。天海は天海である時間と、男と遊ぶウミちゃんでいる時間を、意識的にそう線引きしている。昨日、最中に何度も天海さんと織部が呼ぶので、その線が曖昧になってしまっているのだと思ったけれど、織部にはウミちゃんと呼ばれたくはなかった。何故か天海にもよく分からなかったけれど、それはやっぱり現実的な天海のことを知っているからだろうか。 「ほんと、天海さんえろくてサイコーだったけど、あんなのセックスじゃないでしょ、俺、オナニーの道具にされたのはじめて、ほんと屈辱」 そんな風に言いながら口元をへらへら綻ばせる織部は、言葉の鋭さとは噛み合わない自棄に浮ついた表情だった。それでは何が真実なのか余計に分からなくなる。天海はそのちぐはぐさを自分の中でどんな風に処理をしたらいいのか分からなくて、ただその真相を確かめるみたいに、織部の目をじっと見つめていた。見つめていても、結局何も分からなかったけれど。 「天海さん、俺が男が初めてだからああしたの?だったらもっと上手くやるからさぁ、次は俺にもさせてよ。天海さんばっかりずるいって」 「・・・」 「俺、結構うまいよ、女の子も皆褒めてくれるしさぁ」 「・・・―――」 そう言うと織部は首を傾げて、黙ったままベッドの側に立っている天海の腕を掴んで、また軽い動作で天海のことを引き寄せた。いつか誰かのことをそんな風に簡単に扱ったことのある腕だった。腕を引っ張られて顔が近づく。天海ははっとして、体を捻って織部の手から逃れようとした。織部との間に距離は出来たものの、織部の手はまだ天海の腕を掴んだままだった。それをちらりと天海が見ても、天海が見たことに多分織部は気付いているはずなのに、織部はそれを離そうとはしなかった。この強情さは一体何なのだろう。一体織部は自分に何を期待して、何を求めているつもりなのだろう。天海は分からなくて混乱した。後腐れあるような関係になると感じていたのに、引かなかったのは自分の責任だ。織部をここに手招いたのは自分の責任だ。 「次はない、俺は同じ男と二度寝ない」 「・・・え?なにそれ」 「意味はそのままだ」 天海はその責任を取らなければいけないことを痛感した、その時。

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