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第15話

天海が織部に掴まれたままだった腕を強い力で引くと、それは呆気なく織部の手から外れて、自分の所有に戻ってきてほっとした。織部は昨日この部屋に来た格好に戻って、どうして天海がそんなことを言うのか分からないみたいに、ぽかんとした間抜け面になってベッドに座っている。織部は誰かをこんな風に扱うことに慣れている。きっとそれは異性なのだろうけれど。そんな風に見知らぬ女の子と同じやり方で手中におさめようとされるなんて、まるで自分の立場が部下である年下のこの男よりも、遥かに下になってしまったみたいで、虫唾が走った。天海は天海である間は、なけなしのプライドが働いて、そんな風に簡単に自分で自分の首を絞めるくらいのことはするし、できる。ウミちゃんは快楽を求めてその日限りの男に簡単に足を開くけれど、天海はそんなことはしないのだ。それは酷い矛盾で、けれど天海の中では筋が通った物語にちゃんとなっているのだ。それを誰にも指摘なんかさせやしない。その日限りの男にも部下にもなれない中途半端な男には余計に。 「なんだ、肝心のことは聞いてないんだな」 「肝心の事って何だよ」 「俺は同じ男とは二回寝ない。お前とは寝たからもうない、二度目はない」 それがバーでその日限りの男を選ぶウミちゃんのたったひとつのルールだった。天海が男にそうやって約束を持ちかけることが、そのうちにひっそりと、しかし確かに広まっていて、今ではaquaで天海に二度、勿論飲みに誘われることはあっても、そういう意味合いで声をかけてくる人間はいない。天海はそれから一度も、自分のその提案に首を振る男にも何故か出会わなかった。終わった後、一回なんて勿体ないとぼやかれることはあったけれど、皆天海に嫌な顔をされたくないのか、それ以上踏み込んでこなかった。どうして二度目はないのかと尋ねられたことすらなかった。彼らは彼らで遊び方を心得ているようだったし、天海は不思議とそういう面倒臭いことを言う男を本能的に選ばなかった。天海はそれを思い出して、今更どうしてなのだろうと少しだけ考えた。でも考えたのは少しだけだった。それは天海には関係のない話だった。 「・・・ふーん、でも、天海さん、俺にしとかない?」 「話を聞いてたのか、お前は」 「俺にしておくメリット、天海さんにもあると思うけど。俺毎日事務所にいるしさぁ、あんなとこに男漁りに行かなくてもいいじゃん。あんなこと続けてると、俺以外の誰かに見つかるかもよ」 ゆらりと織部が立ち上がって、天海はすっと足を後退させた。何となく織部と距離を取っておきたかった。何のためなのか、何を怯えているのか、天海自身にもよく分からなかったけれど。立ち上がると目線が天海より少し高い位置にあるのも、何となく気に入らなかった。 「なんだ、何か他に目的でもあるのか。やりたかったんじゃないのか」 「天海さんこそ俺の話何にも聞いてないね。だから、俺前から天海さんのこと気になってたって言ったじゃん。もうちょっと教えてよ、ウミちゃんのこと」 そう言うと、織部はにこりと微笑んだ。それを見ながら、朝の眩しい光の中でそれを見ながら、天海は別の何かに心臓を掴まれて、急に苦しくなる気配がした。何故なのだろう、バーで遊んでいる男たちには皆そう呼ばせているのに、織部にウミちゃんと呼ばれると、心臓が痛かった。それは織部が清廉潔白品行方正に生きている天海のことを知っているせいだろうか。それとも何か他に理由でもあるのか。天海には考えても分からなかった。思わず服の上から押さえた心臓が、どくどくといつものように脈打っているのを、ちゃんと触って確認してようやく安心できているような、そんな曖昧な感覚の中にいる。 「・・・やめろ」 「え?何か言った?」 「やめろ、その、呼び方」 俯いて天海が吐き出すように言うと、織部が天海の方にすっと手を伸ばしてきて、顎を掴んで上を向かされる。織部はそこで口元を歪めて笑っていた。何が可笑しいのか分からない。天海にはよく分からない。自分の城の中で、こんなに苦しいのはどうしてなのだろう。 「なんで、かわいいのに」 「・・・なんでもいい、早く帰れ」 「怖いの、天海さん」 掴まれた手を振り払うと、織部はそれを手持無沙汰に握って開いてを繰り返しながら、少し高いところから天海を見下ろしてそう言った。息が詰まる、天海はそれを見ながらぼんやり、ほとんど現実逃避をしながら考えた。誰かがこの部屋にいるのが久しぶりだからなのかもしれないけれど、ここはひとり分の酸素しかないのかもしれない、だからこんなに息をするのが苦しい。こんな風に誰かに、その先の見えない話をされたのは久しぶりだった。天海には織部が何を言いたいのか、言っているのか分からない。先が見えないから焦燥するし、消耗する。織部の行動にも言葉にも、天海が安心できる材料が何もない。 「なにが」 「怖いの、俺のこと好きになっちゃいそうで」 「・・・何言ってる」 「だって全然、天海さん、俺に何もさせてくれない。掴んでもすぐ離そうとするし、キスもさせてくれない」 「それは・・・―――」 「ちゃんとセックスしなかったのだって、だからなんだろ。かわいいとこあんじゃん、天海さん」 「・・・―――」 そうやってにやにや笑う織部のことを、天海はどこかで見たことがあるような気がした。すっと息を吸うと簡単に酸素は取り込めて、天海は少しだけ安心する。織部が全く自分の考えていることとは違うことを言って、満足そうに笑っているのを見ながら、天海は何だかそれに不思議に安心させられていた。まだそんなことを言っていられるほうがマシだと、思ったからなのかもしれない。 「安心しろ、それだけは絶対にない」 「・・・絶対だって、傷つく言い方するなぁ」 「俺は誰かと後腐れある関係にはならない、誰のことも好きにならないし、誰からも好きになってもらう権利なんてない」 「・・・―――」 それを聞いて、織部は茶色い目を見開いて天海を見た。そして口を開いて何かを言いかけたけれど、結局何も言わなかった。織部が何も言わないせいで、寝室は随分静かになった。織部によって壁の端っこまで追いやられていた天海は、話が終わったならもう帰ってくれないかと切り出すタイミングを伺っていた。何度か同じことを今までにも言ったと思ったけれど、何故か織部はまだしつこく天海の部屋の中にいて、天海をこんな端っこに追いやって、天海の進路を絶っている。 「本気でそんなこと言ってんの、天海さん」 「・・・もう、いいから帰れよ」 「はぐらかすのやめろよ、絶対なんてこの世の中にはないんだからな、分かってんだろ」 「・・・何が言いたいんだ、お前ほんとに、言ってることがよく分からない・・・」 くらくらする頭に手をやって、天海が織部のことを見上げると、織部はそこでもう笑ってはいなかった。自棄に真剣な目をして天海のことを見下ろしていた。それを見た瞬間、こんなもの見るんじゃなかったと天海は思ったけれど、もう目を離すことが出来なかった。 「絶対なんてないよ、天海さん」 「・・・」 「天海さんだってほんとはそれを、知ってるんだろ」 「・・・―――」 だとしたら知りたくなんてなかった。

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