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第16話

「おはようございます」 天海を見つけてそう挨拶をした須賀原は、今日も顔色が優れなかった。何かの病気ではないかと思うほど、青白かったけれど、天海は思わずそれに対しておはようと短く返しただけだった。挨拶が済むと、須賀原は椅子に座り、始業時間になっていないのにPCを開いて何かを見ている。そういえば、矢野が須賀原が参っているからフォローをしてくださいねと天海に言って来たことがあったが、それはそのままになっている。そのままで良かったのか、今更でも何か言ったほうが良いのか、でも一体何と言ったらいいのか、考えながら天海は自席に座って、鞄を一番下の引き出しに放り込んだ。 「アマさん、おはようございます」 すると頭上でそう声がして、顔を上げると矢野だった。矢野はいつも通りにこにこと愛想の良い笑みを浮かべていて、その頬はチークのせいもあるのだが血色が良い。須賀原とはまるで比べ物にならないと思いながら、天海は小さくおはようと続けた。 「アマさん、氷川さんのそれ、結構かかりそうですか」 「あー・・・そうだなぁ。でも規模も小さいからそんなにはかからないと思う。ほとんど俺一人でやるみたいだし」 「そうですか」 氷川はしっかりこの仕事に噛んではいるが、他に何か大きなプロジェクトでも抱えているのか、いかんせん時間がないようだった。天海が逐一氷川に進捗状況を伝えてはいるが、返信はいつも遅い。それでも的確なことを言ってきたりするから、これは後から直しの作業が結構入るのではないかと、天海は見当をつけてスケジュールよりも少し早目に動かしている。 「すがちゃん異動してきたので、歓迎会でもやろうかなって言ってるんですけど。アマさん出席できますよね」 「・・・あぁ、まぁ、日程さえあえば」 「分かりました。じゃあまた班内メール作って回しますね」 にこりと笑って矢野がくるりと背を向けた時、天海はふと思い立って、矢野の背中に声をかけていた。 「矢野」 「あ、はい?」 矢野は振り返って、ちょっとびっくりした顔をして天海を見た。 「お前、織部のこと何か知ってるか」 「・・・織部くん?あー・・・夏目班の子ですよね、あ、すがちゃん同期ですよ、確か」 「・・・そうか」 「織部くんがどうかしたんですか」 真面目な顔をして矢野がそう言って、ふと天海は一体何を聞いているのだろうと思った。 「いや、別に、なんでもない」 それを聞いて矢野は少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、それ以上天海に何も言ってこなかった。この辺りは流石矢野の察知する能力の高さなのだろうと、天海は矢野がデスクに帰って行くところを目で追いながら考えた。自分が踏みこまれたくないと思うところを、絶対に矢野は踏み込んでこない。だから今まで付き合ってこられたのだと思う。でも織部は全然違う。織部は天海の踏み込んでほしくないところに土足で上がり、まだ先があるだろう、隠していることがあるだろうと天海に詰め寄って、訳の分からないことを呟く癖に、肝心のことは何も言わない。まるでこちらの推測を促しているみたいに。ちらりと天海はひとつ島を挟んだ夏目の班を見やった。織部の席は天海に背を向ける形で配置されていて、昨日とは違うネイビーのスーツで、織部はそこに行儀よく座っていた。ウミちゃんと天海が別次元に存在しているかのように、織部もまた今朝の人物とは全く違う誰かに見えた。そんなことはないことを、天海だけは知っているけれど。 「ねぇ、すがちゃん」 「なんですか」 デスクに戻ってきた矢野は肘を突くと、こっそり天海のことを見やった。天海はそこでPCを開いて何やら作業をしているようだった。隣の須賀原に声をかけると、須賀原は青白い顔をして、猫背になりながらPCを叩いている。返事はするが、矢野の座っている方は全く見ようとしなかった。須賀原にはそういうところがある、考えながら矢野も自身のPCの電源を取り敢えずつけた。 「織部くんってさ、確かすがちゃん同期だよね」 「織部?同期ですけど、なんですか」 「いや、さっきさぁ、アマさんに織部くんのこと何か知ってるかって聞かれたんだけど」 「・・・アマさんが?何かって何ですか?」 やっと須賀原はそこで矢野の方を見て、ずり落ちてきた眼鏡をついっと触って引き上げた。 「確かに。何かって何だろ、私知らないから知りませんとしか言わなかったな、アマさん織部くんの何が知りたかったんだろ」 「俺、織部と大学も一緒なんですよ。でもチャラくて要領よくて世渡り上手なイメージしかありません」 「・・・なにそれ、褒めてんの?」 デスクに肘を突いたまま矢野が笑うと、須賀原は眉間に皺を寄せて不服そうな顔をした。 「褒めてないですよ、毎回見るたび違う女連れて歩いてて、何処の誰とヤったとかそんな話しかしないくせに、最後は審査員特別賞とか取って表彰されてたりする嫌な奴だって言ってんですよ!」 「・・・あー・・・嫌いなのね、すがちゃん・・・」 珍しく須賀原がぎゃんぎゃんとそう捲くし立てたので、矢野はそれに苦笑いをしながら、小さく相槌を打った。大学時代にきっと苦い思い出があるのだろうなぁと思いながら、それはあえて口には出さなかった。矢野は織部のことは良く知らなかったが、清潔そうな風貌で愛想のいい男の子であるというイメージがある。須賀原はというと、真面目であることは認めるけれど、要領は兎に角悪いし、何かと弱音を吐いては俯いていたので、大学という場所でふたりがどんな風に過ごしていたのか、何となく想像できる気がして、矢野は須賀原には悪いと思いながらも、少し笑ってしまいそうになった。 「なんかちょっかいでもかけたんでしょ、アイツなら有り得る・・・」 「まぁ、アマさん綺麗な顔してるからね、女も男も無差別にモテるし」 「・・・俺は怖くてそんな気にならないですけどね、織部なら図太いから分かりません。それにアイツすごい面食いだから」 「へぇ、すがちゃん良く知ってんのね、織部くんのこと」 「知りません。大体、アイツ俺が大学の同期だってこと知らなかったんですから、入社式の時にはじめましてって言われて吃驚しましたよ!薄情すぎやしませんか!」 「・・・そんな怒んないでよ、私に」 これは年季の入った怒りだと思いながら、矢野は肩を竦めた。 「・・・すみません・・・ちょっと熱くなりすぎました・・・」 須賀原は眼鏡をついと触ってまた俯くとそう静かに呟いた。

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