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第17話
「矢野さんはでもアマさんと仲良いじゃないですか」
「んー、仲良い?まぁね」
上司を捕まえて仲が良いという表現はいかがなものかと思ったけれど、矢野はあえて今指摘することではないかと思ってそれをスルーした。須賀原は今年の春、波多野の班から異動してきたばかりだったが、矢野も元々の配属は別の班だった。矢野が真中デザインに入社してから3年か4年経った頃、所長の真中の采配によって天海の班に移された。それ以後は異動もなく、今のポジションで落ち着いてしまっている。矢野は須賀原と話をしながら異動してきた時のことをぼんやりと思い出して、なんだか懐かしいと思った。須賀原も同じような気持ちなのだろうかと、その俯く横顔を見ながら考える。
「矢野さんくらいですよ、アマさんと飲みに行ったりするの」
「えー、そう?管理職同士で行ったりするんじゃないの」
「そうですか?」
その時、須賀原が純粋にただ不思議そうな顔をしたので、矢野は抜けているようで意外と須賀原は良く見ているのだと黙ったまま思った。天海はこの事務所で二番目の古株であったけれど、どうも最近所長である真中とも、副所長になったばかりの柴田とも上手くいっていないようで、苛々したみたいに煙草を吸っているのを見かける。何も言わないで、表情も変わらないけれど、その人が意外と小さいことで苛々してストレスを溜め易い体質なのだと気付いたのは、最近だった。この春、副所長のポストについた柴田は、天海よりも後輩だったし、その辺りのことを推測することはきっと容易い。そんな容易いことで天海が頭を痛めているなんて、なんだか天海らしくないような気がしたが、そんな当然のことで苦しんだりもしかしたら妬んだりする天海は、それでいて酷く人間らしい気がして、矢野は見ていて微笑ましい気すらしていた。
「まぁね、私もすがちゃんと一緒で、天海班には異動できたんだけど。私もさぁ、はじめはアマさんのこと苦手だったのよ。あんまり喋んないし何考えてるのか分かんないし、怖いなって思ってたんだけど」
「・・・俺は今同じことを思っています」
「あはは、でもね、まぁ同じ班だし直の上司になるわけだから仲良くしなきゃなと思って、とにかくアマさんに困ったこととか分かんないこととか一杯聞きに行ったのよ」
「ふーん・・・」
矢野はその当時のことを思い出しながら、ちょっと懐かしさに目を細めていた。矢野の都合の良い記憶の中で、天海は今と同じ顔をしている。今と同じ美しいけれどどこか冷たく、人を寄せ付けないような顔をして、つんと上を向いている。別段、外向きの顔が変わったとは思わないけれど、今はそれでも大分心を開いてくれているのかなと矢野は改めて思った。
「そしたらね、アマさん嫌がらないで結構色々話してくれて。きっと頼られるのが嬉しかったんだと思う」
「へぇ、なんか嫌がりそうなのに意外ですね」
「でしょ。私がアマさんのこと好きです頼りにしてますってオーラ出しまくったからだと思うんだけど、アマさん基本的に自分のこと好きな人のことは邪険に扱えないみたい、押しに弱いっていうか、ね、かわいいとこあるでしょ」
「・・・はぁ・・・確かに」
矢野がそんな風に昔のことを笑って話すのに、須賀原はもごもごと歯切れ悪く返事をして、ちらりとデスクに座っている天海を見やった。須賀原が見ている天海からは、矢野の話は余り想像できなかった。それはそもそも引き際をちゃんと分かっている矢野のスペックのなせる技なのではないのかと、疑ってしまうくらいには。もっともっと天海は難しい人物で、つけ入る隙など部下にはそう簡単には与えてくれないのではないかと須賀原は思う。冷たいけれど大声で怒鳴ったりするわけではないし、その静かさがむしろ怖かったりするのだけれど。天海は本気で誰かのことを叱ったりするのだろうか。
「まぁ、アマさん無駄に美人だし、あんまり笑ったりもしないからちょっと冷たい印象あるかもしれないけど、ほんとは優しい人だと私は思うな」
「・・・矢野さんってアマさんと飲みに行って何の話をしてるんですか」
「えー、何の話だろ?まぁ8割旦那の愚痴かなー、あはは」
快活に矢野は笑い声を上げた。それを聞きながら、そんなことをしているふたりのことを不倫しているなんて噂している誰かがいるなんて、本当に惨めで嫌な陰口だと須賀原は思った。自分も少し前まではその噂を、信じている部類の人間だったけれど。
「だからすがちゃんも怖がってないで、アマさんに話しかけに行きな。自分からいかないとあの人心開いてくれないよ、全然」
「・・・分かってますよ・・・でも俺にはちょっとハードルがたかすぎっていうか・・・」
また弱気なことを言って俯く須賀原の背中を、ばしばしと矢野が黙っていつものように、喝を入れるみたいな要領で叩いて、なんだか矢野のそれにも慣れてきたなと、須賀原はぼんやりと思った。そしてふっと顔を上げると、今まさに話をしていた天海が随分近くに立っていたので、須賀原はびっくりして椅子ごと後ろ向きに倒れるのではないかと思った。しかし天海の視線はいつものように矢野の方を向いており、須賀原が静かに驚いていたことを、おそらく天海は気付いていなかった。
「矢野、俺、これから氷川さんのところに行ってくるから、あとよろしく」
「分かりました、私今日は一日事務所にいるので」
矢野だってさっきまで須賀原と天海のことを話していたはずなのに、天海に向かって真面目な顔をして業務連絡をしている。この差は一体何なんだ、何でそんな平気な顔が出来るのだ、まぁ別に悪口を言っていたわけではないのだけれど、と思いながら、須賀原は座ったまま二人の顔を交互に見やった。
「何かあったら連絡してくれて構わないから」
「はい、あぁ・・・アマさん直帰ですか?」
矢野がそう聞くと、天海は少しだけ考えるような素振りをしてから、こくりと頷いた。氷川との仕事を、矢野はしたことがなかったから分からなかったが、皆が挙って氷川クレジットには携わりたくないと言うみたいに、色々天海でも気を遣うことがあるのだろう。それがはじまってからずっと天海はそれ一本にかかりっきりで、あまり班としてもうまく機能していない部分が、天海の机の上に書類の束として残っている。天海は余り残業をするのが好きではなくて、定時で仕事を締めるようにいつもテキパキと動いていたものの、こうなってしまうと残業も仕方がなくなってくる。そうは言っても、他の管理職は大体いつも残業が当たり前みたいになっていたし、天海みたいに仕事を定時で済ませる気すらないのではないかと、矢野は同期の堂嶋がいつも発狂寸前になりながら仕事をしている背中を見ながら、溜め息を吐いている。
「そうする」
「了解しました。いってらっしゃい」
「行ってくる」
いつもの笑顔で矢野がそう言うと、天海は表情を変えずに、今日着てきたグレーのカーディガンを紺色のジャケットに変えて、そのまま事務所を出て行った。天海からはいつも微かにピースの煙草特有の甘い匂いがしている。天海は飲みに行くと、飲んでいるか食べているか、それ以外の時は、大体煙草を吸っているくらいのヘビースモーカーなのだ。その匂いが何だか最近濃く感じるのも、氷川の仕事がストレスになっているのだろう。何となくは予測がつくが、氷川の仕事のことに関しては、流石に矢野でも手出しができなかった。
「アマさんが氷川さんの仕事上がるまで、こっちは足引っ張んないようにしなきゃねー」
「・・・それ俺に言ってるんですか・・・?」
「違うよ、すがちゃん!まぁすがちゃんには頑張ってもらいたいけど」
「いやもう、俺頑張ってますって・・・」
また俯く須賀原の背中を叩くのも癖みたいになっている。それをするのを忘れて、矢野は少しだけ別のことを考えていた。天海がつけたしたみたいに今日突然聞いた織部のことを。
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