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第18話

昼休憩を知らせる音楽が頭上で鳴り響いていたけれど、午前中に終わらせておく予定だった仕事はしっかり残っており、仕方がないので須賀原はデスクに座ってパソコンを眺めたまま、コンビニのサンドイッチを齧っている。矢野は別の班のリーダーである夏目に誘われて外に食事に出たばかりで、天海班で事務所に残っているのは須賀原だけだったが、事務所を見渡せば、まだ点々と所員は残って仕事をしていたりする。かといって食事をしながらの仕事が進むわけではなく、さっきからずっと須賀原は口は動かしていたけれど、手は全く動かないで、頭もぼんやりしていて何も考えることが出来なかった。 「すーがーちゃん」 その時後ろからそう呼ばれて、何も考えずに振り返ると、そこには織部がにこにこしながら立っていた。さっき矢野と織部の話をしていたばかりだったので、何となくタイミングが良すぎるのが気にかかったが、話を聞いていたわけではないだろう。ここから織部の席はずっと遠い。声が聞こえるような距離感ではないはずだった。それにしても、同じ大学に通っていたことを織部が知らなかったこともあり、入社後も班も別だったのでそんなに親しくないふたりは擦れ違って挨拶をすることはあっても、こんな風に織部が話しかけてくることはなかったので、何となく朝のこともあり、須賀原はそれに嫌な予感しかしなかった。 「・・・なんだよ」 「あのさぁ、外行こうぜ、昼」 「・・・お前さ、俺がサンドイッチ食ってるの見えてるよね?」 「俺奢るから、いいじゃん」 相変わらず、人の話を聞こうとしない強引な男だ。須賀原が顔を顰めている間に、織部はくるりと背を向けて歩き出した。今日も織部は紺色のスーツを着ている。事務所には服装の縛りがそんなになかったから、須賀原はスーツがあまり好きでなくて、ジャケットはちゃんと着ているものの、ネクタイを首から下げるなんてことはほとんどしなかった。天海もそんな感じなので、天海班のメンバーは比較的ラフな格好をしていることが多い。織部の班のリーダーである夏目は女性であったので、服装の規定をどんな風にメンバーに教育しているのか分からないが、織部は入社当時からずっときちんとスーツを着ているイメージがあった。 「すーがーちゃん、行くぞー」 「・・・だからなんで、俺行くなんて言ってないだろ」 離れたところから手を振る織部には絶対に聞こえない声で、須賀原はそう独り言を零したけれど、次の瞬間には立ち上がったりしているのだから、不思議である。大学時代、目立つ明るい織部と、一度も話をしたことがなかったのに、こんな風に同じ事務所に就職することになって、それでもまだ接点がなかったはずなのに、一度もすがちゃんなんて呼んだことがない癖に、勝手に矢野の真似をして簡単にこちらの領域に足を突っ込んでくる織部のことを、何となく全面的に拒否できない気がするのは何故なのだろう。織部の背中を追いかけながら、須賀原はきっと天海もそんな風に思っているに違いないと思った。 織部が勝手に決めたイタリアンで、勝手にランチセットを注文された須賀原は、目の前にたらこクリームスパゲッティが運ばれてくるまでの間、やはりどうして自分はさっきまでサンドイッチを食べていたせいで、たいしてお腹が減っているわけでもないのに、そんなものを食べなければいけないのかと思っていた。店まで入って織部の目の前に座ってもまだ、それをしつこく考え続けていた。織部はにこにことその顔を綻ばせていたが、一体何が楽しいのか面白いのか分からなくて、須賀原はますます不機嫌になることを止めることが出来ない。きっと織部は、織部みたいな人間は学校ではヒエラレルキーの一番上に君臨し、今までたいして苦労も努力もせずに、人生を舐めてここまでやって来たのだろうと半分以上嫉妬にかられながら須賀原は思った。 「すがちゃんさぁ、天海班に移ってどう?」 「・・・どうってなんだよ。まだわかんねぇよ、日も浅いし」 「天海さんってさ、かわいいよな」 「・・・かわいい?」 矢野が天海のことを無駄に美人と言った時は、何となく矢野が言いたいことのニュアンスが分かったけれど、織部がかわいいと言い出した時はよく分からなくて、須賀原はまるで見えない文字でも見せられているみたいに、顔を顰める結果になった。天海が何故か織部のことを気にしていたとついさっき矢野が言っていたけれど、これでは本当に天海に何かちょっかいでもかけたのか、そんな後先考えない恐ろしいことが良く出来るなと思って、須賀原はそれにはゾッとしたけれど、織部は机を挟んだ向かいで何でもない顔をしているし、やっぱり人間の種類がそもそも根本的に違うのだろうと思う。そして織部がわざわざ一度も呼んだことのないあだ名でもって自分を連れ出した理由が、須賀原にはようやく何となく分かってきた。 「何かカンペキそうに見えるけど、弱点とかないの」 「・・・じゃくてん?」 天海のつんと澄ました横顔が、その時一瞬須賀原の頭の中を過ったが、須賀原には織部の言っているそれを想像することも出来なかった。そもそもその表情が崩れているところすら、須賀原は見たことがない。須賀原がミスをした時も、天海はいつものように淡々と処理をして、謝る須賀原に対して一瞥くれるともうするなと諭しただけだった。同じ怒られるのならば、柴田みたいに怒号を飛ばされる方がまだマシのような気がする。別段、被虐趣味があるわけではなかったけれど。 「織部、お前さ、アマさんに何かしたのか?」 「え?なんで」 きょとんとして織部が言う。しらばっくれやがってと、須賀原は胸中で舌打ちでもしたいような気分だった。別に須賀原は天海のことは、付き合いづらい上司としか思っていない。けれど矢野があんな風に天海のことを思っているみたいに、事務所の所員たちは班をベースにして動くから、それが真中の狙いなのかもしれないが、どうも班それぞれに家族みたいなチーム感が出てきてしまっている。なんとなくそのせいもあって、別の班の人間によって自分の班のリーダーがもしも頭を悩ませているのだとしたら、それは由々しき事態であると、自然に思ってしまうくらいには、須賀原はすっかり事務所の風潮に毒されてしまっていた。 「今日の朝、アマさんが矢野さんにお前のこと聞いてたって」 「・・・へー」 その時何も知らないような顔をして、織部が口元だけを歪めたので、きっと織部には心当たりがあるのだと、須賀原は瞬時に思ったけれどその心当たりについて、余り深く掘って自分によくないことが出てきてはいけないので、あくまで表面的に織部と関わっておくつもりだった。今は仕事のことを考えるのが精一杯なので、何か変なことに巻き込まれるのは御免だった。 「ふーん、サブリミナル」 「は?」 「いや、いいわ。こっちの話」 「なんなの、お前、ほんとに止めろよな、変なことするの、アマさんはお前が大学の時遊んでは捨ててた女とは違うんだからな」 「遊んでは捨ててたってなにそれ、そんなことしてねぇし」 言いながら織部は、まるでそれが須賀原の冗談であるかのようにくつくつと笑い声を漏らした。何でもしたほうは覚えがないと言うのだから、世の中は理不尽だと思う。すれ違うたびに違う女の子を連れて歩いていた織部は、別にそれが誰かに咎められる何かであるなんてひとつも考えていないようで、ともすれば自分の大いなるステータスであるとでも考えているみたいな横暴さで、飽きれば変える持ち物の何かと、きっと隣を歩く熱を持った生き物を勘違いしていたに違いない。それと同じにあのポーカーフェイスの冷酷な上司がされるわけがないと思っていたけれど、須賀原は何だかその時嫌な予感しかしなかった。俯いた須賀原があからさまに溜め息を吐くのを、織部は見ながらにこにこと笑っていたから。

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