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第19話

次の日もその次の日も、氷川の代わりに天海は現場に出向いていた。時々思い出したみたいに、事務所に電話を入れると、矢野は相変わらず快活な声でそちらの状況を報告してくれた。特に問題がなければいちいち事務所に顔を出さなくてもいいだろうと思って、最近では直行直帰が決まりみたいになっている。氷川は忙しいのか電話をしても出ないことがほとんどであったし、メールをしても返ってくるのは二三日後だったりして、案の定、進捗状況はよろしくなかったけれど、氷川自身は余りそのことについて頭を悩ませていないみたいで、実にあっからかんとして修正を要求してくるのだから、頭が痛いのは天海ひとりだった。その日、朝早くに天海が現場まで出向くと、そこにいるはずのないトレンチコートの背中がいて、天海は心底吃驚した。 「おはようございます、氷川さん」 「・・・おはよう」 氷川了以はいつもより幾分白い頬をして、低い声でそう言った。昨日電話をかけても出なかったくせに、メールの返事もない癖に、急にふらりとやって来られても困ると天海は思ったが、氷川相手に勿論そんなことは言えなかった。朝イチのこんなに早い時間に氷川が来ているのも、自分のスケジュールの関係なのだろう。黙って先日天海がメールで送った進捗状況に関する報告書を氷川が見ているのを、その後ろから天海は立ったまま眺めていた。それを今見ていると言うことは、今まで放ったらかしにしていたという事実があるだけだった。ふと氷川が思い出したように顔を天海のほうに向けて、椅子に向かって黙ったまま指を差した。座れと言うことなのだろう、天海は氷川が見ていないのは知っていたが少しだけ会釈をして椅子に座った。 「とりあえず、これで良いと思う。またサンプル送っておいてくれ」 「分かりました、氷川さんもう出るんですか?」 「んー、コンペの打ち合わせあるから。何かまだある?」 忙しなく立ち上がりながら、氷川は持ってきたサングラスをさっと耳にかけた。なんだかデジャブだと思いながら、天海はその背中を追いかける。 「いや、出来たところまで見てもらえればと思ったんですけど」 「写真見たよ、あれで良いと思う」 「そうですか」 そして時間に常に追われているからか分からないが、氷川はいつも早足だった。けれど自分の荷物を自分で持って、自分で車を運転してここまで来るのだ。それは不思議だった、氷川くらい成功していたら、付き人のひとりやふたりいてもおかしくはないし、運転手がいたっておかしくはない。けれど氷川が未だに一人きりで仕事をしている姿を見るたびに、他の人間を寄せ付けない氷川のことを見つけるたびに、やっぱり氷川は世間がどんな風に揶揄したって変わらないでいて、それだからいつまでも誰かの羨望の先にいて、きっとそれは氷川了以が天才だからなのだと思って少しだけ安心した。天才はいつも孤独だったから。 「氷川くん」 その時、廊下の向こうから誰かが走ってくるのが見えて、前を歩く氷川は急ぎ足だったそれを急にぴたりと止めた。そしておもむろにサングラスを取る。天海はそれが何かよく分からなかったけれど、氷川が足を止めたのに合わせて、思わず自分も足を止めていた。廊下の向こうから氷川の名前を呼んで走ってきたのは、天海は顔を見たことがない男で、ここに入ることができるのは関係者だけなのに、どうして自分の知らない顔が混ざっているのだろうと、天海はぼんやり考えた。 「柳」 それがきっと男の名前だったのだろう。氷川は男のことをそうやってひどく馴れ馴れしく優しく呼んだ。柳は氷川の前に立つとにっこりと笑って、氷川のことを正面から急に抱き締めた。天海は急な展開に吃驚して足を後退させたが、当の本人は、氷川は全く動じる素振りがなく、ただ柳の腕を仕方がないみたいにぽんぽんと叩いた。それに気付いたみたいに柳はするりと氷川から腕を離した。そしてすぐ後ろに立っている天海にそこで、たった今気づいたみたいに視線を移した。 「あ、ごめんなさい」 「いや、いい。天海、お前柳に会うのははじめてか」 「・・・あ、はい」 氷川が振り返って、今度は自分の名前を呼んだので、天海は混乱しながらそれに返事をした。柳は背が高くて、氷川もそこそこ身長はあるひとであったが、それよりも幾分か高くて、まるで真中と話をしているみたいだと、天海は全く関係ないことを考えていた。 「柳、今度の個展、俺の手伝いをしてくれている天海さんだ、真中のとこの職員だよ」 「あ、そうなんだ。はじめまして葉山柳です、この度はお世話になります」 そういえば一番はじめの資料に画家の名前が載っていたが、確かそんな名前だったような気がすると、記憶を掘り起こしながら、天海はそれに定型文で挨拶を返した。それよりも氷川の名前の方が自分には重たく、主役のことを今まですっかり失念していた。成る程、本人ならば、ここに居たって可笑しくない。今まで天海は毎日のようにここを訪れていたが顔を見なかった方が、余程不思議である。それにしても名のある画家でもなさそうなのに、こんなにも若くして自身の個展を氷川に任せることができるなんて、氷川と何かコネクションでもあるのかと思っていたが、本当にそうなのか。ふたりの関係性は外からではおおよそ想像できなかったが、ただの知り合いではないことは天海にも一目瞭然だった。 「氷川くん来てるって聞いたから急いで来たんだけど、もう帰るところ?」 「うん、次のが控えてるから。お前、見学したいんだったらしてこいよ、天海に案内してもらうか」 「んー、いや、いいよ。お仕事の邪魔しちゃ悪いから。俺これから大学に絵を取りに行ってくる」 にこにこと笑って柳は首を振った。それを見ながら天海は少しだけ安心した。素性が不明な氷川と関わりの深い人物と一体何を話せばいいのか分からなかったからだ。そしてそのまま柳は氷川に手を振って、軽快に式場の廊下を氷川が駐車場へと向かうのとは逆の方向に走って行った。 「アイツ、俺の弟なんだ」 「・・・え?」 大袈裟に手を振る柳が廊下の向こうに消えて、ここからすっかり見えなくなってから、氷川は目を細めてまるで何かひどく愛しいものの話でもするかのようにそう言った。氷川のそんな表情を、天海はその時初めて見ていた。それはテレビや雑誌の中で微笑む作りこまれた氷川了以よりも遥かに、遥かにただ美しかった。 「俺は他に家族がいないから、柳だけなんだ。だから柳には何でもしてやりたい。俺にできることだったら、なんでもしてやりたいんだ」 「だからこれは俺の大事な仕事なんだ、大切な人のためにやる仕事だから。俺の一番大事な仕事なんだ」 氷川のそんな優しい声色を、天海ははじめて聞いたような気がした。天才氷川了以は、決して孤独でもひとりでもなかった。あんな風に目を細めて誰かのことを愛しいと思える感覚が、この人にはちゃんと備わっているのだとその時天海は思った。欠陥があるから美しいと思っていた氷川のことを、欠陥があるから敵わないでも構わないと思っていた氷川のことを、天海は初めてすぐ近くに感じていた。氷川了以は天才だけれど、決して孤独だったわけではないのだ。こんなに優しい顔が出来るのならば、きっと孤独ではなかったのだ。そう思うと胸の奥がぎゅっと痛くて、天海は注意して酸素を取り入れておかないと倒れてしまうのではないかと思った。本当は知りたくなかった、そんな風に優しく誰かの名前を呼ぶ氷川の事なんて、天才は孤独でいて欲しかった。誰かの羨望や憧憬の為に、孤独であれなければならなかった。 天海は天才でも何でもないのに、それなのにこんなにも孤独でいるのに。

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