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第20話

その日、天海は久しぶりに事務所に帰ってきた。自席には山盛りの未処理が残っていて、それを見ながらひとりで溜め息を吐く。天海の班のデスクは閑散としていて、今日は誰も残っていなかった。基本的に天海は残業を推進してはいないので、他の班に比べたらメンバーも早く帰っていることが多かった。天海自身もいつもは残業なんてしない。残業なんて要領の悪いバカのやることだと思っている天海は、いつもなら時間内に確実に終わらせられる処理を、氷川クレジットの仕事のせいでこうして大量に残していたりする。端からそれを捲りながら、早々に面倒臭くなってきたけれど、今日やらなければ明日の自分の首を絞めるだけだったので、仕方なく片っ端からチェックしはじめた。管理職になったのは成り行きだった。別に興味があったわけではなかったけれど、真中に誘われて歳も歳だからと考えて今の位置についた。業務量は増えたし、責任も重くなったけれど、今みたいにひとりで行動していても誰にも咎められなかったので、それは少しだけ楽だと思えた。その時何故か、少しだけ朝見た氷川の顔が頭にちらついて、これはストレスが溜まっているからだと勝手に結論付ける。最後にしたのは織部とだったし、あれをカウントして良いのか分からないけれど、そろそろ息抜きに出かけなければいけない。織部が天海さんにもメリットがあるなんて訳知り顔で言っていたけれど、天海はaquaに今日限りの男を探しに行くことを、一度も億劫だなんて思ったことはない。ウミちゃんでいる時間は、天海にとっては必要な時間なのだ。 半分くらい処理を終えたところで、集中力も限界だと思って、天海は仕事を切り上げた。事務所に電気はついていたが、中には誰もいなくなっていて、いつの間にか最後まで残っていたのだと、天海はぼんやりと思った。全部の電気を消して、管理職のみが持たされているカードキーで事務所を施錠してから、天海は駐車場に降りて行った。駐車場にも、車がほとんど残っていなくて、遠隔操作でロックを解除すると、遠くでヘッドライトが光るのが見えた。眩しくてそれに目を細める。 「天海さん」 ふっと後ろから名前を呼ばれて振り向くと、エレベーターの入口付近に織部が座っているのが見えた。よいしょと言いながら立ち上がった織部は、今日はグレーにストライプの走るスーツを着ていた。綺麗なそれでコンクリートの上に簡単に座ってしまう織部の神経を疑うと思いながら、天海は疲れた頭で織部のことを見やった。そう言えば前もこうだった、その日、天海は自分の判断を誤ってしまうくらいには疲れていたし、負荷がかかっていた。まるでそれを見透かすみたいな登場の仕方だなと思ったが、織部がそれを知るはずもないのは分かっていた。蛍光灯の鈍い光の中で、織部はいつものように、にこにこと笑っていた。 「いやぁ待ちくたびれましたよ、天海さん」 「・・・お疲れさま」 「直帰ばっかで全然事務所に帰って来ないんですもん、もしかして俺のこと警戒してんの?」 「もう帰る、お前も帰れよ」 話が噛み合わないならこれ以上話をしていても無駄だった。天海がさっと半身になると、それを許さないかのように織部が手を伸ばしてきて、寸でのところで腕を掴まれる。相変わらず強い力だと思いながら、半分以上体が自由なので、まだ大丈夫と頭の中で誰かが言う。 「何か用か」 「冷たいなぁ、セックスまでした仲じゃないですか、もっと仲良くしましょうよ」 笑いながら織部が顔を近づけてきて、天海は後ろ向きに足を動かしたけれど、腕を掴まれているせいで織部から距離を取ることが上手くいかなかった。 「ホテル行く?アンタの部屋でもいいけど」 「離せ、二度目はないと言ったはずだ、しつこいぞ」 「強情だなぁ、天海さん、俺にしとけばいいのに」 言いながらまた織部が笑う。何が可笑しいのか、天海には分からなかった。さっきまでそろそろストレス発散に行かなければいけないと思っていたことは、その時天海の頭の中にはなかった。やっぱり面倒臭いことになる。面倒臭いことになるのは分かっていた。天海は織部とそこで関係を持ったことを改めて後悔した。こんなことになるのなら、やっぱり強い言葉でもって、それを制止しておくべきだったのだ。織部は天海の時間を知っているし、それをこんな風に簡単に天海に思い起こさせたりもする。後腐れがないからあんなに自由に何にも考えずにいられるのに、こんな風になってしまっては意味がない。 「良いじゃん、この間天海さん俺の事勝手にしたんだから、今度は俺にもさせてよ」 「やめろ、離せ」 「大体さぁ、詰めが甘すぎない?あんなことしてくれちゃってさぁ、俺が一回ではいそうですかって引き下がるわけないじゃん。自分の弱いところあんな風に晒しちゃってさ、それをネタにまた強請られるとか、思わなかったの。天海さん」 「・・・」 「俺、天海さんが思ってるほど馬鹿でもいいひとでもないよ」 「・・・自惚れるな、そんなこと思ってない」 「へぇ、じゃあどんな風に思ってんの」 にこりと笑って織部は言った。どうと言われても、天海にはそれに何を言えばいいのか分からなかった。天海にとって織部は天海には理解のできない変なことを言って、執着してくる面倒臭い部下でしかなかった。答えを期待して覗き込んでくる織部の目から、天海は逃れたいと思った。自分には答えが分からない。何と言えばこの腕を離してもらえるのか、天海には分からない。 「・・・興味がない」 「はは、またそうやって可愛くないこと言う。冷たいね、天海さん」 「本当のことだ、別にお前に限ってじゃない、俺は誰にも興味がない。だから深い関係にはなりたくない」 「あ、そ。だから一回きりなの、誰にも踏み込まれたくないから?」 言いながら、織部が天海の腕を引っ張った。そうやって簡単に引き寄せられる自分の体が、まるで意思がないみたいで嫌だった。踏み込まれたくないからなのかと聞く織部こそが、天海のプライベートな領域にずかずかと土足で踏み込んでいることに、気付いているのだろうかと天海は思った。思って、抱き締められそうになる体を、腕を突っ張ってまた織部から距離を取った。 「やめろ、いい加減、離せ」 「・・・ほんと一貫してるなぁ、ちょっとくらい絆されてくれてもいいんじゃない。俺が今日何時間ここで待ってたと思ってんの」 「俺には関係ない」 「良いじゃん、深い関係になんかならなくたって、アンタにとってセックスなんて何でもないくせに。何とも思ってないんだったら、抱き締めたりキスさせてくれたっていいじゃん、そういことされるの嫌なんだろ、何か別の感情が、動いちゃいそうでさ」 言いながら織部はとんと天海の胸を突いた。そしてそこでやっとしつこく掴んでいた腕を離した。突然自由になった天海は、薄暗い駐車場に立ったまま、自分より少しばかり背の高い部下のことを見上げていた。さっきまでへらへら笑っていたくせに、織部は急に神妙な顔をして、何故か苛々しているみたいに見えた。動いているのは自分の何かではなくて織部の方だろうと天海は思いながら、それは口には出さなかった。そんなに強い力ではなかったのに、織部に突かれた胸が少しだけ痛いような気がした。 「もう帰る、お前も帰れよ」 天海は一度言ったそれをもう一度、織部に向かって言い聞かせるみたいに言うと、ロックを開けたままになっているシーマに乗り込んで扉を閉めた。織部が何か他に面倒臭いことを言ってこないように、早くそこから脱出して眠りたかった。それから駐車場を出るまで、織部の顔は見えなかったから彼がそこでどうしていたのか分からないし、その後どうしたのか、天海には知る由もない。

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