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第23話
残業をするのが普通になっている真中デザインで、ほとんど残業をしない天海は珍しかった。他の管理職にもどうしてそんな風に仕事が片付くのかと心底不思議そうに聞かれることがあるけれど、天海はただ残業をするのが嫌なので、業務時間内に仕事が終わるように逆算して処理しているだけだ。それでも時々イレギュラーがあって、例えば部下のミスだったり、氷川の名前のついた仕事だったりと、別のことに拘束時間を取られると、勿論天海だって残業を余儀なくされることはあった。たまにしか残業をしないせいで、残った日は何だかあまり眠った気にならない。けれど天海は昔からあんまり眠らなくても、次の日まで疲労を持ち越すことがない体のつくりをしていて、だからその日限りの男と遊んで、それこそ朝方までセックスをしていたって、その次の日まるでそんなことなどなかったみたいな白々しい顔をして出勤できた。そう考えればウミちゃんの出現はかなり適確で、そうした天海の体の性質を、元々知っていたかのようだった。
「おはようございます、天海さん」
駐車場のエレベーターの前に立って、織部は昨日と同じようににこにこしてそう言った。変わったのはスーツの色くらいなものだった。天海はそれを見ながら、どうして今日は現場に直行しなかったのだろうとふと思った。昨日未処理を大量に残してきてしまったのが気にかかり、久しぶりに事務所に来てみたらこの有様である。考えながら、そういえば昨日の夜もここに織部がいたような気がするが、本当に毎日こうやって来るかもしれないが、来ないかもしれない自分のことを待っているのだろうかと思った。だとしたらその徒労には溜め息しか出ない。その情熱染みた何かを、別の何かに注いだ方が余程生産的だと、指摘しようかと思って結局やめた。面倒臭かったし織部は多分、それには頷いてくれないのが分かっていたからだ。
「・・・おはよう」
「天海さん今日は直行じゃないんですね、あ、今日は直帰ですか?待ってても無駄ですか」
「無駄。だから早く帰れよ」
織部のそれを半分以上聞き流しながら、エレベーターのボタンを押そうとすると、横から手を伸ばされて押される。ふっと手の主を見やると、織部はなぜかそこでやはりにこにこと笑っていた。またエレベーターという小さい箱にふたりきりで閉じ込められるのかと思うとうんざりしたが、なんとなく天海は織部がもう二度と息が詰まるみたいに自分のことを追いつめたりしないだろうことは分かっていた。それは多分本能的に、織部はその辺りの引き際をちゃんと心得ていると思ったから。だとしたら他の引き際だって、理解してくれても良さそうなのに、それは何だかいつまで経っても平行線である。
「あ、俺考えたんですけど、ホテルとか天海さんの部屋でもね、勿論いいんですけど、それよりなんか食べに行きません?」
「行かない」
織部の言葉が終わらないうちに、天海はそれに返事をした。まるでタイミングを伺っているみたいに、その時チンと音を立ててエレベーターが地下に到着する。この時間、エレベーターには誰も乗っていないことが多いので、誰かが降りてくるための時間は用意しなくても構わない。扉が開いた瞬間に、そこからするりと体を中に滑り込ませる。すると当然みたいに織部も後から乗り込んできた。4階のボタンを今度は天海が押して、エレベーターはゆっくりと上昇をはじめる。車を使わない所員が、1階から乗ってくることも多かったけれど、その時は1階には止まらずそのままエレベーターは上昇する。もっとも、織部だって電車通勤なのだから、本来ならば1階からエレベーターに乗るグループにいるはずだった。
「じゃあ映画に行くのとかどう?天海さん映画とか見るの?どんなんがすき?」
「行かない、見ない、好きじゃない」
それなのに何故地下まで下りる必要があるのか、天海には分からない。彼が何を求めているのか、一体何をしようとしているのか、天海には考えても分からないことだったので、それを考えてみたこともあったけれど、結局やめた。分からないことを考えることは徒労でしかなかった。無駄なことは嫌いだった。織部の提案をあまり深く聞かずに続けて全部断ると、後ろで織部がくつくつ笑う声が聞こえて、振り返ろうとして意識的に天海は前を向いていることに努めた。振り返ったら負けたようで嫌だった。
「ひどいな、天海さん。健気な俺に対してその扱い、ちょっとないんじゃない」
「お前は何がしたいんだ」
「分かってるくせに、いけずだなぁ」
「悪いけど、何を言われても二度目はないから」
前を向いたまま、天海は静かに呟いた。織部の声は聞こえない。
「別に俺とセックスしてくれなくてもいいですよ」
「・・・は?」
「だからもうちょっと、天海さんのこと教えてください」
「・・・お前昨日と言ってることが違う」
「そう?天海さんって俺の話聞いてないようで、そうやってちゃんと聞いてくれてんだなぁ」
はははと背中の向こうで織部が笑う気配がして、天海はすっと視線を下げた。教えるって一体何だろう。一体何がこの男は知りたいというのだろう。孤独で空っぽな天海の中にある一体何が。寄りにも寄って天海の一番のプライベートでデリケートな秘密を暴いておいて、他に一体何が知りたいというのだろう。教えてくれと言われたって、天海には何もなかった。何もない胸がぎゅっと軋んで痛かった。
「思ったんだけど、天海さん」
「・・・」
「天海さん昨日俺のこと興味ないって言ってたじゃん。それって少しは俺にも望みがあるんじゃないかって、思ったんですよ、ほら、嫌われてはいないみたいだし」
「・・・随分ポジティブなんだな、お前」
俯いたまま織部の話にいつの間にか返事をしてしまったことに気付いて、天海は少しだけ負けたような気がした。すると後ろから天海の手を誰かが取る気配がして振り返ると、エレベーターに付いた手すりに腰掛けるみたいにして、織部は天海の手を取ってこちらを見るとにこりと笑った。昨日まで散々強い力で腕を掴まれていたのに、そんな弱い力でどうこうしようとするなんて、一体何があったのだろうと天海は思った。それではまるで天海が逃げ出さないことを知っているみたいで嫌だった。
「そう。ポジティブなんです、俺。だからちょっとくらい冷たくされたって、俺だって天海さんのこと嫌いになったりしないから」
「・・・」
「ほんとに俺にしといたらいいのに」
その続きが知りたいような、知りたくないような気がした。俯いた織部がその口を開くと、綺麗な赤色がそこにあって、天海はその色を何処かで見たことがあるような気がした。それがちろりと動いて、天海の手の甲の骨の浮いたところを舐める。後退するのを忘れていた。天海は取られた手を引いて、ぱっと目の前でエレベーターの扉が開くのに合わせて外に出て行った。
「あぁ、そうだ、天海さん」
しつこく織部が背中に聞いてくる。振り返ると織部はエレベーターから出てくるところだった。織部の後ろでややあってその鉄の扉は閉まる。そして別の誰かをまた乗せるために、僅かな起動音だけを残して下がっていく。もうそれを目で追いかけることは出来ないけれど。
「狭いところ苦手?閉所恐怖症、とかいうやつ?」
「・・・別に」
その時織部が何を確かめようとしていたのか、天海にはよく分からなかった。
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