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第24話

その日は午前中で積もり積もっていた未処理をやっと終わらせて、午後はいつもと同じように氷川の現場に向かった。氷川はやっぱり忙しいのかいつものようにいなかったけれど作業も順調そうだし、この分だとスケジュール通り終わりそうだと思って、天海は久しぶりに少しだけ安心した。もうこの仕事に関して言えば、これ以上心配しなくても良さそうだった。その後、また事務所に戻っても良かったけれど、また織部が待ち構えていたりしたら面倒臭いと思って、結局事務所には帰らなかった。一度家に戻って車を置くと、仕事用の堅苦しい服を脱いだ。もっとも事務所は服装の規定はなかったので、広い目で見ると、天海も他のサラリーマンに比べれば、十分ラフな格好で仕事をしているのだろうけれど、天海にとっては襟がついているシャツすらも堅苦しくて嫌だった。そして身軽になると、タクシーでaquaに向かった。向かっている途中で、今日飲む約束をしている土岐田(トキタ)から連絡が入って、仕事が押しているから少し遅れると連絡があった。了解とそれに短く返して、天海は何でもないのに溜め息を吐いてタクシーの窓から東京の夜景を見やった。 aquaを選んだのは事務所からも家からも程よく遠くて、隠れてウミちゃんをやるのに便利だと思ったからだ。現に何年もここを起点にウミちゃんをやっているけれど、織部に見つかるまでは、誰にも見つからなかった。もしかしたら誰か見かけた人間がいたのかもしれないが、天海の耳に入らなければ、それは見つからないことと同義だった。常連になるまで通い詰めるつもりは毛頭なかったけれど、今から新しい店を開拓するのも面倒だったし、天海にとってaquaはそれなりに愛着もあるから、余り離れたくなかった。けれど織部に見つかったから、もうここにもあまり来ないほうが良いのかもしれないと思いながら、結局同じ店で飲んでいる。土岐田を待つまでカウンターでマスターとでも喋っていようと思って、スツールに腰掛けるとすぐに山城が気付いたみたいに、別の客に手を振って別れて、ひょこひょこと近づいてくる。 「あれ、ウミちゃん、久しぶりじゃない」 「久しぶり、あ、ジンで」 「はーい、ウミちゃんほんと好きねぇ、そればっかり」 山城はにこにこ営業スマイルを振りまきながらまた来たルートで、カウンターの奥に消えて行った。ややあって天海の前に山城ではないスタッフが、ジントニックを運んでくる。喋って待っていようと思ったのに、今日は随分賑わっているようだ、山代はなかなか帰って来ない。手持無沙汰の天海はポケットから携帯電話を取り出して土岐田から連絡が来ていないか確認したが、それもなくただ暗く沈黙しているだけだった。諦めて天海がそれをポケットに仕舞い直した時だった。 「ウミちゃんひとり?一緒に飲もうよ」 反射的に振り返ると、そこには何故か織部が得意げな顔をして立っていた。その時、織部はスーツを着ておらずに、見たことがない私服を着ていたから、自分みたいに一度家に帰って着替えてからわざわざここまで来たのかと、天海は目の前のことから逃避しながら考えた。ここまでされると流石に少し、頭が痛かった。そんな天海の思惑などまるで関係なく、にこにこしながら織部はささっと天海が座っているカウンターまで、まるで何かの動物みたいな所作で寄って来た。 「お前・・・」 「あれ、天海さんまたジン飲んでんの?ほんと好きだな、それ」 「・・・もう、いい加減にしろよ」 俯いて怒鳴る元気もなくなった天海が力なく呟くのを、まるで聞いていないみたいな軽やかさで、織部は天海の隣のスツール、土岐田が来たら座らせようと天海が思ってキープしていた席に勝手に座って、持っていたビールのグラスを天海の飲みかけのジントニックのグラスと勝手に合わせる。がちりとガラス同士がぶつかる音がした。暗いライトの下で見る織部の顔は笑っている。 「何しに来てんだ、こんなところまで」 「何って、天海さんが俺に冷たくするからじゃないですか」 「・・・名前」 天海は俯いたまま小さく呟いた。一瞬織部がきょとんとした顔をして、それから口元だけを綻ばせた。 「あぁ、ウミちゃん、ね。ここではいいんだなぁ、なんか線引きがよく分かんない・・・」 「お前、もう本当にいい加減にしろ。もう帰れ、こんなところお前が来るところじゃない」 今度こそ、今度という今度こそは、強い口調で織部に拒否を伝えたはずだった、今度こそは上手くいったと思った。ビールを持ったまま織部は少し吃驚したみたいに、いつになく強い目をする天海のことを見ていたから、きっと天海の言いたいことを織部も分かってくれたのだと、その時天海は考えていた。ややあって、織部のその形の良い唇が動いて、何か言おうとした。 「ウミちゃん、ごめん、遅刻してー」 その時、後ろから急にそう呼ぶ声が聞こえて、天海は織部から視線を外して、無意識にそれを目で追いかけてしまった。ややあって織部も声のした方を見る。そこには天海がさっきまで待っていた土岐田が、仕事終わりのスーツ姿で手を上げて立っていた。確かに天海はここで土岐田のことを心待ちにしていたのだが、いかんせんその時登場のタイミングが悪すぎた。おかげで織部が言おうとしたことを天海は聞くことが出来なかった。軽く舌打ちをすると、それが土岐田にも分かったようで、さっと顔を強張らせてから、それを無理矢理笑顔にした。そしておずおずといった雰囲気で、天海の隣に座る織部のことを指さした。 「・・・えっと、ごめん、今日のひと?」 「違う」 努めて明るく振る舞う土岐田の声を、一瞬で掻き消すみたいな俊敏さで天海はそう遮って、苛々したように隣の織部に向き直った。織部はその時天海のことは見ておらずに、急に出てきた土岐田のことを何かを確かめるようにじっと見ていた。 「・・・今日の?」 「織部、分かったな、もう帰れよ」 織部の小さな呟きは聞かなかったことにする。面倒臭いことは全部スルーで良かった。天海は鞄から財布を出して、一万円札を取り出すと織部に向かって差し出した。タクシー代のつもりだった。織部はそれを見ると、眉間に皺を寄せて、それから何故か怒った顔をした。そして天海の差し出した一万円札を受け取らないまま、スツールを降りると、土岐田の方に向き直った。 「アンタ誰?天海さんのなんなの?」 「・・・なんだ、ウミちゃん変なのに掴まってるんだなぁ、珍しい」 「答えろよ、無視すんな」 「あはは、心配しなくて大丈夫だって。俺もネコだからウミちゃんとは何でもありません、ただの友達」 低い声で威嚇するみたいに織部が言うのに、土岐田は笑いながら両手を上げて、ふざけて服従のポーズを取りながら、顔を顰める織部に向かってそう言った。それから視線だけでもう一度、天海に織部の正体を問うてくる。しかし天海はそれに応える術がなかった。正体なんて天海の方が知りたかった。分からなかった。受け取られなかった一万円札だけが、天海の渇いた指先に張り付いている。 「・・・ネコ?」 「あっはっはは!うそ!なんなのこの子!ノンケとは寝ないんじゃなかったのかよ!」 土岐田が本格的に体を捩って笑い出したのを見て、天海はひとつ溜め息を吐いた。やっぱり織部はここでウミちゃんが見繕っているその日限りの男とは違うのだ。何かじゃなくてきっと全部、何もかもが違った。土岐田が笑い出して話にならないので、織部がゆっくり振り返ってまだスツールに腰掛けたままの天海を見やる。どこか助けを求めるような視線に、天海は答えないでジントニックを飲んでいた。

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