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第26話

「おかえり」 明日も仕事だと土岐田が真面目な顔をして言うので、天海は全く酔えた気にならなかったし、こんなものでは物足りなかったが、2軒目には行かなかった。aquaに行くと、天海が際限なくお酒を飲むのを知っている山城は、サービスしとくねと笑って、会計を誤魔化してくれた。払っても構わないのにと思っている天海の隣で、土岐田が愛想よくお礼を言っているので、天海はただ黙っていた。土岐田と別れた後、そのまま男を捕まえようかと思ったけれど、それを見透かしたみたいに、土岐田は何故か天海を先にタクシーに押し込んで、おやすみと笑って扉を閉めたのだ。それで仕方なく、天海は消化不良のまま自宅マンションへと帰ってきていた。天海のマンションはいわゆる高級住宅街と言われる部類に存在し、深夜には繁華街の賑わいが嘘みたいに静まり返っている。その煌々とオレンジ色の光がついているエントランスに、何故か追い返したはずの織部が座っていた。マンションはオートロックになっていたから、誰かに紛れて中に入り込んだのか、管理会社に電話するぞと喉まで出かかってやめる。やはり面倒臭くてもホテルを探せばよかった。織部を自宅になんか入れるべきではなかった。こんなことになるのが分かっていたら、絶対にこんなことはさせないのに。判断力の鈍った自分を呪うしかない。 「お前、いよいよストーカーだぞ」 「・・・なんで帰って来たんだよ、天海さん」 眉を顰めて天海が言うと、マンションの住人の団欒のスペースになっているらしいが、誰もそこで団欒しているところを見たことがない、エントランスに置かれたソファーに織部は腰かけて、天海の方は見ないようにして、何故か少し機嫌が悪そうな声でそう言われた。天海にはよく分からない。何故彼がそこでそんな態度なのか、天海には考えたって分からない。 「ここは俺の家だ」 「今日帰って来ないと思ってた」 「・・・なんで」 面倒臭いがそれに短くそう応えてやると、織部がその顔をすっと動かして天海を見た。それは声と同じ不機嫌そうな表情だった。 「だってアイツとホテル行くつもりだったんだろ。アイツ誰なの?カレシ?」 「・・・お前は・・・話を・・・」 「だから俺にそんな感じなの、天海さん」 「・・・聞けよ」 急に勢いを取り戻したみたいに織部が立ち上がって喚くのに、天海は頭の中がぐわんぐわん揺れる気がした。奥歯を個きつく噛む。もしかしたらニコチンが足りないのかもしれないと思ったけれど、aquaでひと箱吸ってきたところだったから、そんなはずはない。ふっと目の前の織部が動いて、こちらに手を伸ばしてきたのを、慌てて体を捻って避ける。aquaからここまでタクシーで幾らだったのだろう。さっき自分で払ったはずの金額を、天海は思い出そうとしたけれど無意味だった。織部もきっと同じ金額を払ってここまで来たのだから、織部がどこに住んでいるのか分からないが、ここから自宅までのタクシー代を出してやらねばならないと、半分以上現実逃避をしながらそうやって必死に考える。織部に背を向けて、エレベーターの呼び出しボタンを押す。苛々したみたいな織部の雰囲気は、天海の背中越しにも伝わってくる。 「無視すんなよ、天海さん」 「・・・だから、土岐田は友達だって言ってただろ、本人が」 「アイツとは飲みに行くのに俺は駄目なのかよ、なんで」 「・・・―――」 なんで?織部が苛々したみたいに、それでいて心底不思議そうにそう尋ねるのに、天海は一瞬織部のことを見上げてしまった。何を聞かれているのか、一瞬分からなかった。目の前でエレベーターが口を開く。慌てて天海はそれに乗り込んだ、ボタンを押すよりも早く、織部が隙間から滑り込んでくる。この男はどこまでついてくるつもりなのだろう。考えながら天海は鞄を探って、財布を取り出した。 「天海さん、ねぇ」 「煩い、お前、どこまでついてくる気だ、早く帰れ」 「帰んないし帰れない。終電終わってるし無理だから、泊めて」 「はぁ?」 どうしてそんな図々しいことが言えるのだろう。天海には到底考えの及ばないことだった。目の前でエレベーターの扉が開く。いつの間にか天海の部屋のあるフロアまで来てしまっていた。織部は黙ったまま天海よりも先に降りて、すたすたと廊下を歩きだした。織部は天海の部屋番号を知っている。こんなことになるのならやはり、ホテルに連れていけば良かった。何度後悔したって、前を行く織部の足を止めることなどできない。天海は財布を手に持ったまま、慌てて織部の背中を追いかける。 「織部、お前いい加減にしろ」 「だって、天海さんが悪いんじゃん」 「タクシー代足りないならやるから、もう帰れ」 「・・・―――」 財布から抜き出した一万円札を織部に押し付けるように渡すと、天海は織部に背を向けて部屋の鍵を開けた。部屋に入る前にくるりと振り返ると、織部は胸に押し付けられた一万円札を抑え込むみたいに持っていて、天海のことを少しだけ驚いたみたいな顔をして見ていた。どうしてそんな顔が出来るのか、一体その表情にどんな意味があるのか、天海には分からない。扉を引くと、その隙間から体を滑り込ませる。そこで天海はやっと安心できるはずだった。安心できる場所に帰って来られたはずだった。天海が後ろ手で閉めようとしたその扉が、誰かの確実な意思を持って開かれて、天海の手は宙を空ぶる。ふっと振り向くと、その手首を強い力で掴まれる。電気の点いていない部屋の中は随分暗かった。ややあってばたんと扉が閉まる。 「織部、離せ、何やってる・・・」 「天海さん、今日してないんじゃ溜まってんじゃないの」 「・・・は?」 「俺がしてやるよ、今日は」 いつの間にか追い込まれていて、天海の背中が玄関の壁にどんと当たって止まる。握られた手首が痛かった。天海が目の前のことを処理できずに固まっていると、織部は口元だけで笑って、すっと顔を近づけると、天海の首筋をべろりと舐めた。びくりと肌が脈打つ。ぼんやりしている場合ではなかった。天海はぐっと奥歯を噛んで、織部に掴まれた手に力を込めたが、まるで動かなかった。空いている方の左手で、体を寄せてくる織部の肩を押し返そうとしたけれど、上手く力が入らなかった。目の前がちかちかとしてくる。強い力に頭の中がくらくらする。喉の奥が狭まって、上手く呼吸が出来なくなる。織部の手は天海の着ていたシャツを、パンツの中から引っ張り出して、するりと脇腹が撫でられた気がした。 「やめろ、織部、どういう、つもりだ」 「してやるって言ってんじゃん、何が不満なの」 いつもにこにこと柔らかい表情をしていた織部は、その時どこにもいなかった。冷たい目で見下ろされて、天海はまた小さく息を飲んだ。本気なのだろうか、本気でこんなことをしようと思っているのだろうか、それとも自分はまたよく分からない方法で、脅されている最中なのだろうか。天海は必死に考えようとした。頭で必死に考えても何の意味もないことは分かっているはずなのに、天海は考えることを止められない。織部はそれきり黙って、天海の体を撫でていた手をするりと抜いて、ベルトに手をかけた。かちゃかちゃと片手で器用にそれが解かれるのが分かる。天海は奥歯を噛んで、もう一度掴まれている手に力を込めたけれど、やはりびくともしなかった。口は空いているから、呼吸は出来ているはずなのに、何故か酸素が慢性的に足りない。短く息を吐きだし続けるばかりで、上手く吸えない。ぜいぜいと喉の奥で器官が狭まっている音がしている。織部の手がするりと下着の中に入ってくる。まずい、どうにかしないといけないのに、酸素がやっぱり足りなくて、頭まで回ってこない。

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