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第27話

握った手が微弱に震えているのに気付いて、織部は屈んで天海の顔を下から覗き込んだ。もっと抵抗するかと思ったけれど、はじめに強い言葉でこちらを制止してきてから、天海は俯いて動かなくなった。覗き込んだ天海は開けっ放しの口で、ぜいぜいと肩を震わせて息をしていた。はっとして織部は握っていた手を離した。ぐらっと天海がバランスを崩して倒れ込んでくるのを、ほとんど無意識に抱き留めていた。耳の傍で天海が荒く呼吸を繰り返すのが聞こえる。なんだかこんなこと、ずっと前にあったような気がする。こんなはずじゃなかったのに、一体何をしているのだろう。織部は自分に舌打ちをして、震える天海の背中を撫でた。 「天海さん、ごめん、大丈夫・・・―――」 「は、・・・なせ」 荒い呼吸の中で、天海が短くそう言って、織部は少しだけ迷ったがおずおずとその腕を解いた。天海は一人では立っていられなくて、そのままずるずると玄関に倒れ込む。そんな風になるくせに、それでも他人の腕を拒絶しようとする天海のことが、織部は不思議だった。織部が近づくと、まるでそれを警戒するみたいに、天海はほとんど動かない体を動かして、部屋の中に這うように移動した。織部は思わず足を止める。床に這いつくばったまま、まだ荒い呼吸を繰り返す、天海の肩が上下している。 「ごめん、天海さん、俺そんなつもりじゃ・・・―――」 ではどんなつもりだったのだろう、天海はフローリングの床に顔を半分押し当てるみたいにしながら、思った。髪の毛で視界は半分隠れていたが、ぼんやりと織部がそこにいるのが分かる。その肌色がこちらに伸ばされた気配がして、天海はまた体を捩った。煩かった呼吸がやっと戻ってきたのだ、余計なことをしてまたぶり返させるのはやめて欲しい。早く帰ってくれればいいのに、最早祈るように思いながら、天海はそこで体を縮めていた。そんな天海の胸中の言葉を察したみたいに、織部の手が天海の触れる前に止まる。止まったまま動かなくなる。それを見ながら天海は少しだけほっとした。 「・・・別に、いい、から」 「・・・―――」 そんな謝罪は無意味だし、それよりも早く出て行ってほしかったけれど、天海はそれ以上を言う事が出来なくて、喉の奥で声が掠れただけだった。目の前で止まったまま動かなかった手が、ぎゅっと握りこぶしを作って、天海はさっと頭の中の血液が下がるような気配がした。しかしその握りこぶしは天海の視界から一瞬のうちに消えて、目の前に戻ってくることはなかった。視線を上げて、織部を見やる。織部はそこで、さっきまでしおらしく俯いていたはずなのに、何故かまた苛々した表情に戻っている。 「・・・おりべ」 「何だよ、それ」 「・・・―――」 「何でそんな、何でもない風に言うんだよ、怒れよちょっとは!レイプされそうになったんだぞ!怒るべきだろ!」 頭の上から理不尽な怒鳴り声が降ってくる。織部は両手をぎゅっと握って、それからその気持ちのやり場がないみたいに、ふっと天海から視線を反らした。天海にはどうして織部がそんなことを言うのか分からない、どうしてそんなことを考えてしまうのか分からない。冷えていたフローリングにずっと頬をくっつけていたせいで、そこが人肌に温まって気持ち悪くても、天海はそこを動くことが出来ずに、そうやって分かりやすく憔悴する織部のことを見ているしかなかった。 「ほんとなんだな」 「ほんとに、天海さん、俺のことなんかなんとも思ってないんだな」 「ほんとにただ、興味がないんだな」 薄暗い駐車場で、織部に対して興味がないと言ってその手を振り払ったことを、天海はなんだか随分昔のことのように思い出していた。その時俯いてそう独り言みたいに呟く織部は、嘘みたいな悲壮感の中にいて、やっぱり天海にはどうして織部が怒ったりそんな風に悲しそうに呟いたりするのか、全く理解できなかった。両手に力を入れて、ぐっと上半身を起こすと、まだ独りで座っているのもしんどかったので、左に動いて壁に半身を預けてぴたりと止まる。天海の動きに合わせて、反らされていた織部の目が戻ってきて、なんだかそれが酷く期待に満ちた目だったので、天海は何か言うべきなのかと思ったけれど、こんな時にふさわしい言葉を天海は知らなかった。つるりとした織部の目の表面が光って、天海はそれを何気なくぼんやり見ていた。 「何か言ってよ、天海さん」 「・・・何かって」 「・・・はは、ほんとひどい、ほんとひどいな、天海さん」 笑いながら織部が顔を伏せて、ずずっと鼻を啜った。泣いているのかもしれないと思ったけれど、やっぱり天海にはそこで織部が泣き出す理由など想像できない。次に顔を上げた織部の目は赤かったけれど、水分の気配はなくて、天海はそれに何だか不思議に安心していた。ずずっとまた織部が鼻を啜って、その口元をまるでいつもの軽口を言うみたいに綻ばせた。 「ひとのことこんなに好きにさせといて、ほんとずるい」 aquaで好きなんじゃないのと呟いた土岐田の声が、天海の静かな頭の中を過った。織部はそのままふらっと立ち上がって、床を擦るように足を後退させた。そのまま帰るのかもしれない、天海は今の今まで織部が早く帰ってくれればいいのにと思ったけれど、その時は、その時だけは、まだ織部の声が聴いていたかった。けれど手を伸ばして織部を捕まえるのには、天海には何もかもが足りなかった。足りていなかった。だから天海は少しだけ顔を上げて、織部のことを見上げることしかできなかった。 「なぁ、天海さん」 織部の靴の踵ががつりと玄関の扉に当たって止まる。織部は俯いて、ぼんやりと見上げる天海の目を見ながら、声は酷く小さかったけれど、その時確かにそうやって天海の名前を呼んだ。そこで織部が呼んでいるのは、間違いなく天海の名前だった。 「もうあんなとこ行くなよ、自分のことそんな娼婦みたいに安売りすんのももうやめろ、頼むから」 「俺に天海さんのこと大事にさせてくれよ」 本当に手を伸ばして捕まえたかったのは、天海ではなくて織部だったのかもしれないけれど、そうやって織部は呟くと、自分に自制をかけるみたいに手をぎゅっと握って、それからくるりと天海に背を向けてドアノブに手をかけた。がちりとそれが動く音がした。それでもまだ、天海にできたのはその背中を見ていることだけで、何もできなかった。何をしたらいいのか分からなかった。 「あーぁ、かっこわる、ほんとはもっとロマンチックに告白するつもりだったのに」 扉が僅かに開くのに合わせて、織部はいつもの砕けた口調でそうやって、その場に溜まった淀んだ空気を清浄するみたいに言った。言ったけれど、織部はもう振り向かなかった。 「ごめん、もう帰る」 小さく呟いて、織部は呆気なく扉を押して出て行った。目の前でゆっくりと誰の力も借りなくなった扉が動いて、音もなく閉まる。電気の点いていない部屋の中で、天海は玄関に取り残されたまま、閉まった扉のことをずっと眺めていた。もう起き上がることも立ち上がることも出来たのに、出来ないふりをしてそこにずっと座り込んで、何も言わない扉だけを見つめていた。床には二万円が落ちている。

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