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第28話

今日も良く晴れている。天海は事務所にある唯一の喫煙スペースで、ピースを咥えて朝からじっと無風で動かない雲の波を見ていた。始業時間までまだ少しあるから、たまにはやく来てしまった日は、ここでこうしてぼんやりとしながら煙草を吸っていることが多い。もっともはじまる前からデスクにかじりついて、今日も今日とて終わらない仕事をしている所員もいるが、天海は残業もしないし、そんな風に朝から仕事に追いかけられるなんて真っ平御免だったから、例え未処理が机の上に積まれていたって、それを手に取ることはしなかった。煙草を唇から抜いて、ふうと肺から息を吐くと、煙が無風の空に吸い込まれて消えていく。それを何気なく目で追いかけていると、天海の背中でがちりと扉が開く音がした。喫煙スペースはここだけだから、喫煙者はどうしても一ケ所に集まるしかない。天海みたいにニコチン中毒な所員は真中デザインにはいなかったが、いつも閑散としているここも、就業時間以外は喫煙者で賑わっていることも多かった。だからその時も、きっとそのうちの誰かだと思った。誰でも良かったから、天海は振り返ることはしなかった。真中が禁煙をはじめてからというもの、波多野は元々煙草を吸わないし、天海が挨拶をしなければならない人間は、ここには入って来なくなった。 「天海さん」 そう呼ばれて何も考えずに反射的にふっと振り返ると、そこには予定調和みたいに織部が立っていた。今日もきちんとスーツを着ていて、ネクタイを締めている。あんなものを着ていて暑苦しくないのかなと天海は改めて思った。くるりと体ごと織部に向き直って、背中を手すりにとんっとつける。昨日あんなことがあったのに、次の日には忘れたみたいに話しかけることができるなんて、やっぱり天海は自分には全く理解できないと思ったけれど、すたすたと織部がベランダを大股で過ぎて近づいてくるのを見ながら、天海は織部が昨日のことを決して忘れているわけではないことを、確信した。 「どうした、目腫れてるぞ」 「・・・誰のせいだと思って」 まるで吐き捨てるみたいに小さく織部が呟くのに、天海は外の音もあってあまりそれが聞き取れなくて、わずかに首を傾げる。天海が動くと口に咥えられた煙草がゆらりとその煙の形を変えた。そしてその煙は、もれなく上空に吸い込まれていく。 「・・・昨日はすみませんでした、一応、その、反省してます」 珍しくちゃんと敬語を使う織部がそう言って、天海の前で頭を下げるのを、天海は何となく見ていた。こんな時にかける言葉を考えてみたけれど、やっぱり思いつかなかった。天海はいつも織部にかける言葉を探しては、それに裏切られ続けている。どうやってもうまく思いつかないのだ。ゆるっと目の前の織部が顔を上げて、またひどいと言われるのかもしれないと思ったけれど、織部は昨日みたいな弱気な目はしていなかった。織部がまた一歩こちらに近づいてくるのに、何となく天海は足を後退させようとして、背中が手すりにくっついていたことを思い出した。結局、それ以上後退できない。織部は強い目をして、天海より少し高いところから天海を見下ろして、もう視線を反らすのは止めて、それから静かに口を割った。 「天海さんは、俺が好奇心か何かでちょっかい出してると思ってるかもしれませんけど、違うんで、はじめはそうだったけど今は違うんで、それだけは分かってください」 そう言って、織部は少しだけまた頭を下げた。天海はそれをほとんど無意識に目で追いかけて、煙草を奥歯で軽く噛んだまま、ふうとその隙間から息を吐き出した。それを口から外すタイミングがなくなって、煙草は随分短くなってきている。 「分かってる」 すっと織部が動いて顔を上げる。何故か微妙に困ったような顔をしていて、天海は肯定したのに、何故織部はそんな顔をしているのだろうと思った。 「・・・嬉しかったよ、純粋に、お前が好きだって言ってくれたことは」 「でも俺は、誰かにそんな風に思ってもらう資格なんてない人間だから」 そんなに刹那的になるなと土岐田に言われたって、天海にはこの方法しかなかった。他にどうすればいいのか分からなかった。そんなぎりぎりの理性と怠惰で守っているのは自分自身で、他の何かではなかった。天海はそうやって自分のことを確かに守っているのに、守っているつもりなのに、何故かそれとはが逆のことを、安売りするななんてまるで身を削っているみたいなことを、織部には簡単に言われたりして天海は混乱するだけだ。それが一番いい方法なのに、誰にもそれを理解してもらえない。 「天海さん、前も俺にそう言いましたよね、どういう意味ですか」 そうだったか、良く思い出せないけれど、織部は良く覚えているのだなと変なところに感心しながら、天海は織部のことを見上げた。その目には期待はもうなくて、なんだか随分寂しそうな目になっている。そんな目で見られても、天海には差し出してやるものが何もないのに不毛だと思った。こんなどうしようもない自分のことを好きになってしまうなんて、なんて不毛なのだろうと思ったけれど、それを織部に伝える術がなかった。天海は何か別の言い訳を考えてみたけれど、こんな時に限って何も思い浮かばないのだから、もう仕様がなかった。土岐田に言われなくたって、織部に言われなくたって、本当は天海だって思っていた。ストレスの発散に男に抱かれるのが良いと思ったのは、何も考えられなくて済むからだった。でも考えなくていいのはその一瞬で、終わればただ倦怠感と虚しさだけが残っている。それでも毎日そんな風にやり過ごさなければいけないことが、今までの天海にも今の天海もあって、きっとこれからもそれは存在し続ける。なくなったりはしない。 「昔好きだった人がいた」 「誰より大事に思っていたのに、結局傷つけた」 「俺は彼の人生を台無しにしてしまった、だから」 天海は俯いて、すっと息を吸った。唇から短くなった煙草を取って、設置してある灰皿に放るとそれは吸い込まれてすぐに見えなくなる。何故、織部に向かってこんなことを話しているのだろう、誰にも話をしたことがなかったのに、適当に別に言い訳をすればいいだけなのに。そんな昔のことに足をまだ引っ張られているなんて、思いたくなかったし思われたくなかったけれど、天海は何もなかったみたいに誰かと笑いあうことも誰かと幸せになることも誰かにそんな風に愛されることも、そして誰かのことを愛することも、もう全部してはいけない大罪に思えて、残りの人生をこんな風に投げやりになって過ごしている。土岐田には投げやりになんかなっていないと言ったけれど、天海にはその自覚があった。氷川に死んだような魚の目をしていると言われた時に、何も言い返せなかったことも、それが真実だと思ったからだ。せめて自堕落に生活を送ることが、昔好きだった恋人に送る贖罪のつもりだったのかもしれない。そんなもの届くわけがないと分かっているのに。 「俺はまたきっと大事な人を傷つける」 「好きだって言ってくれたお前のことも、きっと傷つけるよ」 だから大事な人なんていらなかった、ひとりでも孤独でも構わなかった。また傷つけてあんな酷い思いをするくらいなら、ひとりでいるほうがマシだった。そのほうが良かった。それで良いはずだった。孤独だと信じていたはずの氷川が、自分以外の誰かを大事にしていることを知って、それでまだ暗闇に落とされたような気がしたけれど、それでもまだ天海はひたすらに、ひとりでいるほうが良いに決まっていると信じようとしていた。織部が目の前に現れて、天海には到底理解のできないことを勝手にひとりで喋りまくるまでは、天海だってそれを信じていた、長い間。そういえば、好きだなんて言われたのは久しぶりだった、まだ誰かにそういう対象として見られることがあるのだと、天海はぼんやり思っていた。そんな風に誰かの心に一番陽性の気持ちを育たせてしまうことがあるのかと、天海はそんな自分が心底不思議だった。自分はこんなにどうしようもない生き物なのに。 「だから大事な人なんて、いらない」

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