29 / 48

第29話

晴天の下の朝の光は、昨日薄暗がりの中で俯いた織部の表情を、やっぱり幾分か明るく見せて、天海はそれに軽率に安心していた。それで良かったのだと思った。もうあんな前にも後ろにも進めないような思いをするのは御免だった。それは織部のためではなく、自分の為に。天海自身がもうそんな思いをしたくないから、織部のそれが育ちすぎる前に摘んでおいてやったほうが、彼のためにもなる。いずれきっと感謝されることになる。自分のことなんか思い出さなくなる。織部のことを簡単に手招いて、自分の闇に落としてしまうことが、天海には簡単に単純に予測できた。きっと同じことになる。天海が誰かのことを大事にすればするほど、きっとその歯車は速く回転して、いずれ天海を捕まえるだろう。その方が良かった、良いに決まっていた。今の快楽はきっともっと後になって、淀みになって天海の首を絞める。もう天海はそれから立ち上がることが出来ないと思った。もうそんなに若くもないし、明日を生きる気力もない。だからそれで良かった。 「それでいいんですか、天海さん」 「それが俺への答えってことで良いんですか」 それで良かった。天海は唇を、渇いた唇を割って、それに応えなければと思った。良いんだと言い聞かせて、織部には納得してもらわないといけないし、自分もそれでピリオドを打てばそれでおしまいだった。開けた唇が何故か震えて、天海は喉の奥で声が掠れるのを聞いていた。 「もしもとかきっととか、そんな分かんないことばっかり理屈で勝手に決めつけて」 「ずっとひとりでいるつもりなんですか」 迷う天海より、織部の方が幾らか早かった。舌打ちをしたい気持ちで、天海はまた勢いを取り戻そうとする織部のそれに俯いた。また耳を塞ぎたくなっている。孤独には慣れているはずだったけれど、だとしたらなんであんなに、自分以外の誰かを大事にする氷川のことを見て、絶望したりしていたのだろう。自分には何もないのに、他に誇れるものなんて何もないのに、天才でないだけでなくて、真中にも優しくされずに、後輩の柴田に先に出世されたりして、好きでやって来た仕事ですら、そんな風に天海を裏切ったりするのに。もう他に頼るところも誰かもいなくて、立っているのもやっとなのに、そんな風に肩を掴んで、知った風に上から諭すのはやめて欲しかった。もう傷つきたくないし、傷つけたくないと思うのは、そんなにいけないことなのだろうか。 「そんなに思い出が大事なんですか、思い出が天海さんに何をしてくれるんですか」 その時織部の腕が動いて、天海の両肩を掴んだ。はっとして天海は俯いていた顔を上げる。背中は手すりにくっついている。これ以上下がることも、前に織部がいるから進むことも出来ない。体を捩ってそこから抜け出そうとしたけれど、その時の織部の力が強くて、天海の体はびくともしなかった。これはまた呼吸が出来なくなるのでは、と一瞬天海の中で危険信号が流れる。目の前がちかちかして頭の中がぐるぐるして、車酔いにでもなったように、きっと吐き気が胃の中からせり上がってくる。なのに、織部はその手に力を込めて、顔を上げた天海の目を覗き込むようにする。どうやったら織部がその手を離してくれるのか、天海には分からない。 「ちょっとでも嬉しいって思ってくれたんだったら、今ここにいる俺のことを見てよ、天海さん」 「俺が好きになったのは今の天海さんだよ、過去のことなんてどうでもいい」 「天海さんが俺のこと傷つけたって、俺は天海さんのこと、ひとりになんかしてやらない」 何故か、喉の奥は締まらなかった。呼吸はそのままだし、目の前に星も散らなかった。頭の中は酷く冴え冴えとしている。織部は天海の両肩を握っていた手を解いて、自由になった天海を今度は正面から抱き締めた。そうして天海はまた不自由になる。けれどやっぱり喉の奥は締まらない。こんな時に昨日みたいに発作が起きたら、織部は腕を離すのに、どうしてこういう時に限って、自分の体は織部のことを拒絶しないのだろうと、天海はぼんやりと織部の肩越しに見知った喫煙スペースのベランダを見ながら考えていた。本当はこんな時に、こんなに気持ちが凪いでいることが、自分にとってどういう意味なのか、天海は少しだけ分かっていた。昨日は簡単に発作を起こしたのに現金なものだ。織部が自分を傷つける対象ではないということを、堅い頭ではいつまで経っても理解できなくても、体は簡単に理解して受け入れる。それが全ての答えのような気もしたけれど、天海はその腕を掴むことが出来なくて、やっぱりどうしても出来なくて、まだ迷っていた。 (この手を取ったら、俺はひとりでいなくてもよくなる?) (孤独なんかじゃなくなる?) (でもそんなことしていいのか) 自分のことも勿論そうだけれど、自分のことを好きだっていう人のことも大事にしてみればと、物知り顔で講釈を垂れた土岐田の顔が浮かんできた。この腕を取ってもいいのだろうか、織部に抱きすくめられながら、天海はまだ迷っていた。まだ少し勇気が足りなかった。いつか織部を傷つけてしまうかもしれないのに、こんな自分のことを好きだと言ってくれた人のことを、傷つけてしまうかもしれないのに。そして自分も傷ついて、またひとりになってしまうかもしれないのに。 (・・・かもしれないのに) もしもとかきっととか、そういう架空の話でまた自分は織部を遠ざけようとしている、その顛末が怖いから、あんな風にはなりたくないから、だけどどこかで確信している。自分はきっとまた同じことを繰り返してしまう、頭でどれだけ同じ轍は踏まないのだと分かっていても、気を付けていても、きっと同じことをしてしまうに決まっている、決まっていた。けれど。 (もう、誰も傷つけたくない) (もう、あんな風に自分も傷つきたくない、でも) 震える腕で、天海は織部の肩を掴んだ。びくりと織部の体が揺れる。それにぐるりと腕を回して、天海はそっと織部を抱き返した。そういえば、こんな風に誰かに強く抱きしめられたのは久しぶりだった。体や頭に残る熱を忘れてしまうくらいには。天海が抱き返したのが分かったみたいに、織部はその手の力を一層強くしたけれど、それでも天海の体はそれに拒絶反応を示さなかった。分かっていた、天海の体はきっと、頭よりも遥かに、織部のことを受け入れることに抵抗がない。それが自分にとってどういう意味合いなのか、本当は天海は分かっている。口に出すのが憚られるだけで黙っているけれど。 「・・・何か言って天海さん」 「・・・何かって何」 こんな時にふさわしい言葉は一体何なのだろう。天海は考えたけれど、やっぱり織部にかけてやる言葉を考えれば考えるほど、そんな言葉には何にも意味がないような気がした。黙ったままの天海を訝しがるみたいに、おずおずと織部は腕を解いて天海をまた正面から見た。その時事務所の中から、始業を伝える音楽が鳴り始めた。ふっと天海の目がそちらに反れる。 「・・・始業だ、戻るぞ」 「え、ちょ、天海さん!」 ぽかんとする織部を押しのけるようにして、ベランダから出て行こうとした天海の腕を織部が掴むと、天海の足は簡単に止まった。ややあってからくるりと振り返る。織部はそこで何故か赤い顔をして、天海の腕を必死になって掴んでいた。そして振り返った天海の目を見ると、またどこか安心したみたいに織部は手の力を緩めて笑った。朝の日の光が眩しい。 「天海さん、好きだよ」 まぶしい。

ともだちにシェアしよう!