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第30話

「アマさん!3番にお電話です、氷川さんから」 少し離れた席から須賀原がそうやって自分を呼ぶのが聞こえて、天海はぱっと顔を上げた。自分の机の上に乗っている電話を見ると、確かに三番のボタンが点滅している。電話を取ってくれた須賀原には、手を上げてお礼の代わりにすると、受話器を取って光っている三番を押しながら、天海は受話器を肩に挟んで、見ていた矢野の報告書を脇にどけて、PCを操作して氷川のメールを確認した。氷川との仕事は佳境で、もうほとんど仕上がっている。今から妙な変更を押し付けられたら、オープニングまでに間に合わない気がすると思って、少し焦りながら、天海は舌打ちをするのを我慢して奥歯を噛んだ。 「お電話代わりました、天海です」 『おう、天海。忙しいとこ悪いな』 「いえ、葉山さんの件ですよね、何か変更でも」 あなたの方が格段に忙しいくせにと、言いかけてやめる。氷川の声はいつもより弾んで聞こえて、何となく悪い話ではないことを、天海は祈りながら指先だけで氷川のメールを探る。 『いや、変更はなしで、最後まであれで良いと思う。最終調整だけちょっとしたいから、また連絡するわ』 「・・・あ、そうですか」 心底ほっとしながら、天海はすっと指を止めて受話器を持ち替えた。変更がないなら氷川のメールを探す必要もなかった。それにしてもそれなのに何故、氷川は電話をしてきたのだろう。他に何か連絡事項でもあったかと、天海は頭の中を探ってみたけれど、氷川がわざわざ連絡をしてくる理由など、見当たらなかった。売れっ子の氷川は秒刻みのスケジュールで動く、兎角忙しい人であったので、こちらから連絡をして見てもなかなか捕まらないことが多くて、苦心しているという話は氷川と仕事をすると、皆が挙ってする話題でもあった。天海は今まで個人的に氷川とやりとりをすることはなかったので、今回のことで彼らが言いたかったことは身に染みて分かったような気がした。だからこそ氷川側から連絡をしてくるのは珍しい。 「それで氷川さんわざわざ連絡をくださったんですか」 『・・・あー、いやぁそれもあるんだけど、なんつーかその・・・』 らしくなく氷川は歯切れ悪く、電話口で口ごもった。 『謝っとこうと思って、お前に』 「・・・謝る?」 『いや、お前、初めて挨拶に来てくれた時、俺割と酷いこと言っただろ、あれとか。まぁあと色々。悪かったよ』 「・・・いえ」 はじめて挨拶に行った時、嫌いだと面と向かって言われたことだろうか、死んだ魚みたいな目をしていると言われたことだろうか、天海は思い出しながら、今更そんなことを言ってくる氷川の意図を考えた。そういえばそんなこともあった、それよりも後の事が大変すぎて、最近まで思い出すこともしなかったけれど、それを言った方の氷川の方が気にしていて覚えているなんてなんだか不思議だと思った。氷川は外向きには良い風に理解されているし、それなりに気を付けてもいるのだろうけれど、真中をはじめとする身内には言動は辛辣だし横暴だしで、本当に彼は世界で認められている仕事人なのだろうかと、そのひととなりに関しては首を傾げることもあった。その氷川がこんなことをわざわざ言ってくるなんて、一体どういう風の吹き回しなのだろう。何かその裏があるのではないかと、天海は考えることを止めることが出来ない。 『今回はお前が尽力してくれたおかげで良いモノが出来そうだ、柳もきっと喜ぶ、感謝している』 「・・・とんでもないです」 その氷川はきっとあの時みたいに、自分の一番大事な人の顔を思い浮かべて、優しい顔をしているに違いなかった。天海はそれを考えながら、何故か胸がぎゅっと痛くて、どうしてこんなに痛いのか分からないと思いながら、あまり何も考えずに、表面的に氷川にお礼を言う。 『俺はずっとお前のことが嫌いだった、事務所にいたときからろくすっぽ努力もしねぇくせにそつなくなんでもこなしやがって、俺の努力を馬鹿にしているみたいで嫌いだった、本気を出せばもっと高みにいけるのにそれもしねぇで実力持て余しやがって』 「・・・氷川さん?」 『真中もきっと気付いてるよ、お前のそういう手抜きに。だから正直お前が担当になったときはすげぇ嫌だったけど今回は助かったよ本当に、他の仕事ももっと気合い入れてやれ、斜に構えんのはもうやめろ。天海、お前のゴールはそんなところじゃない、もっとがむしゃらに努力しろ』 「・・・―――」 氷川の声は、その時の声は、今まで聞いたことがないくらい真剣だった。天海はまたその氷川の真剣なそれに心臓を掴まれて、呼吸が苦しくなる。そんなことは知らなかった。氷川は一度も天海に対してそんなことは言ったことがないから、きっと知る術がなかったのだろうけれど。そんなことは何にも知らなかった。それどころか、天海は氷川と事務所で一緒だった頃、天才であり他の人間とはそのつくり自体が全て違っていた氷川は、自分のことなど眼中にはなかったと思っていたし、再会してこうして仕事をするまで、名前すら覚えていないのではないかと思っていた。けれど、氷川はちゃんと昔から天海のことは見ていたし、覚えていたのだと、その時天海は実感した。苦しかった、苦しかったけれど、天海はそれを嫌だとは思わなかった。 『きっと真中は俺がそう思ってることを見越して、お前のことを寄越したんだと思う。全くアイツは食えねぇ奴だ、相変わらず』 言いながら、氷川が電話口で笑うのが聞こえた。真中が最近冷たいようなのも、そのせいだったのだろうかと、天海はぼんやりと考えた。そう思えば、全ての矛盾がひとつのところで点を結ぶような気がする。自分が卑屈に思っていたことも、誰かと比べて劣等感を抱いていたことも、八つ当たりして気持ちが塞いだことも、全部そんな風に結局、そうやって見れば、何でもないことなのだと氷川に分からせられているような気がした。自分のことならちゃんと分かっているし、コントロールできていると思っていたけれど、存外そうでもなくて、こんな風に外側からの言葉で安心したり、気付かされたりしていることも多分、今までの自分の人生の中にはなかった。考えながら天海は小さく息を吐いた。何故か妙に安心していた。 『そういや、オープニングの前に、完成披露パーティーやるからお前も来いよな』 「あ、はい。分かりました」 『柳もお前にお礼が言いたいって言ってたから、話を聞いてやってくれ』 「・・・分かりました。俺で良ければ」 『はは、謙遜するなよ、天海。また一緒に仕事しよう。ありがとう』 「・・・とんでもないです、こちらこそ、勉強させていただきました、氷川さん」 『なんだそれ、嫌味かよ。お前のそういうとこやっぱ嫌いだわ、はは、じゃーな』 笑った声のまま、電話はあっさりと切れてしまった。天海は切れた電話の受話器を戻して、それから少し考えていた。氷川のことを。氷川の言葉の意味も。ここで一緒に働いていた時、確かに氷川はいつも一生懸命だった、どんなに打ちのめされても前を向いて、一生懸命すぎてこちらが辟易してしまうほどだったけれど、天海がそうやって斜に構えている間に、氷川はどんどん成果を出して、その実績を自信に変えて、そして光のスピードで走り抜けて、天海の前から姿を消した。けれど天海は時々、テレビや雑誌の中で美しく微笑む成功者となった氷川を見るたびに、一緒に働いていた時のことを思い出してしまう。あの時、氷川はよく俯いて泣いていた。上手くいかない自分の不甲斐なさにぶつかっては、その感情の全てを、誰に晒すことも惜しまなかった。その頭を撫でて慰めていたのはいつも真中だったけれど。氷川は泣きながらそれでもやっぱり前を向いて、そして絶対に走り出すのだ、止まったりしない。その背中を憧れとも侮蔑とも取れぬ瞳で、じっと天海が見つめていたことを、前だけを向いて走っていた氷川が、知っているなんて思わなかった。 (やっぱり、伊達じゃないんだな、氷川了以) でも何故か不思議と、嫌な気持ちではなかった。

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