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第31話
「あ・ま・み・さん!」
本当は5時半で仕事を締めるつもりだったが、真中との会議が長引いたせいで、今日のスケジューリングは余り上手くいっていなかった。それは天海のいつものレベルと比べてという話だが。6時を少し回ったところでやっと退勤処理をしていると、自分をそんな風に呼ぶ声が聞こえて、天海は顔を上げた。デスクの前にはきっちり帰宅する準備が済んでいる織部がいて、何故かにこにこと笑って天海のことを見下ろしていた。織部は天海の班ではなかったから、席も離れていたし、就業中は接点がほとんどなかった。また織部は喫煙者ではないので、ベランダで会うこともないし、事務所内で擦れ違ったりすることはあったにしても、話すことは皆無に近かった。だから今まで名前をぼんやり聞いたことがあるくらいだったのだ。
「今から帰りですよね、一緒に帰ろ」
「・・・―――」
何が面白いのかにこにこ顔の織部は、何も入ってなさそうな鞄をふらふらと揺らしながらそう言った。ちらりと織部が座っていたはずの離れた場所にあるデスクを見てみると、そこはすっかり空になっており、リーダーである夏目以外の所員は帰ったのか外に出ているのか、やけに閑散としていた。夏目だけが眉間にしわを寄せた難しい顔をして、ひとりぽつんと席に座っている。
「ちょっと織部くん」
「あ、なんすか」
天海が織部のあからさまなそれにどう答えようか迷っていると、矢野の声が聞こえて、目の前で織部はそちらに向かって振り返った。矢野はさっきまで仕事をしていたはずだったが、いつの間にか立ち上がって、織部のことを訝しがるような視線で見ていた。それを見ながら矢野が正しい、矢野はいつでも間違わないと、天海は黙ったまま静かに考えていた。
「なんなの、アンタ最近、アマさんにちょっかいかけにきてるけど」
「ちょっかいなんて人聞き悪いこと言わないでよ、矢野さん」
「人聞き悪いことしてるのはアンタでしょうが。ってか敬語、先輩にも上司にも敬語!」
「すいません、俺、敬語苦手なんですよねー」
へらへら笑いながら、織部は後頭部を触って、髪の毛が後ろだけくしゃくしゃになる。矢野はそれを見ながら、織部とは対照的に眉間にしわを寄せた渋い顔をしていた。基本的にいつも誰にでも愛想のいい矢野が、そんな顔をしているのは珍しかった。
「俺、天海さんの近所に住んでるんですー、だから時間あうなら車でぴゅーって送ってもらってほうが早いと思って。ほらこの時間、電車混んでるじゃないですか」
「・・・ほんとに?アマさん結構な高級住宅街に住んでるけど、アンタ生意気にもあの辺に住んでるの?」
「まぁあの辺っていうか、あの辺ですね」
「だとしても、上司をそんな運転手みたいに使うのよくないと思うけど」
「矢野さん頭かったいなぁ、別にいいじゃないですか、ね」
言いながら織部が天海に同意を求めるみたいに振り返ると、さっきまで確かにそこで退勤処理をしていた天海はいつの間にかいなくなっており、デスクの上はさっぱりと綺麗に片付けられていた。はっとして矢野のほうに向き直ると、矢野はまだ織部を何か疑うような目で見ている。
「アマさんならもう出たけど」
ふたりのやりとりを見るわけでもなく、近くに座っているせいでどうやっても会話が耳に入っていた須賀原が、PCに視線を落したままぽつりと静かに言う。織部がはっとして事務所の出口を見やると、そこで擦れ違う所員に挨拶をされている天海の姿があった。
「あ、ちょっと、天海さん!置いてくなよ!」
「ちょっと、織部くん!けいご!」
「すいませーん、おつかれしたー!」
矢野のそれには答えたようで答えないで、織部はどたばたとデスクと所員の間を縫って、慌てた様子で天海の背中を追いかけていく。矢野はそれを見送りながら、立ったまま盛大に溜め息を吐いた。それに答えるみたいにPCを見つめていた須賀原は、また小さく呟いた。
「確かにアマさんって押しに弱いですね」
「え?」
エレベーターの閉めるボタンを押すと、目の前でゆっくり扉は閉まりはじめた。だが、それが完全に閉じきる前に、またゆっくりと扉は開きはじめた。そこから眉間にしわを寄せた織部がぬっと顔を覗かせてくる。天海はもう一度閉じるのボタンを押そうと指を伸ばした。
「ちょっと!やめろ!俺をいじめるのはやめてください!」
「・・・いじめてないだろ、別に」
「今挟もうとしただろ、確実に」
完全に織部がエレベーターに乗り込んだのを見てから、天海はさっき押せなかったもう一度ボタンを押した。織部は何故か疲れたみたいによろよろとした足取りで天海の隣を過ぎると、エレベーターの奥の手すりに腰かけて、俯いたまま溜め息を吐いている。
「天海さんちょっとクールすぎません?折角、彼氏が迎えに行ってるんだからもうちょっと嬉しそうな顔してよ」
「お前彼氏だったのか」
「・・・オイ、そこからなのかよ」
言いながらまた呆れたように織部は溜め息を吐いて、前を向いて立っている天海の右手を後ろから引っ張った。天海はそれに振り返ってみるべきなのか、真剣に考えてしまう。
「もうちょい優しくしてくれてもバチ当たんないと思いますよ」
「・・・―――」
言葉の意味を考えながら天海は振り返って、織部が掴んでいた手をそこからするりと抜くと、そのまま織部のベルトに手をかけ、それを手前に引っ張るようにした。
「優しくしてるだろ、十分」
「・・・職場でやめてください!はれんち!」
地下1階にエレベーターが着くと、顔をそう赤くして叫ぶ織部をその中に残して、そのまま天海はすたすたと駐車場に降りていく。
「あ、ちょっと、だから、俺を置いていくのやめろ!」
振り返ると織部が空っぽの鞄を持って、何故か嬉しそうな顔をしてこちらに向かって走ってくるのが見えた。天海は織部が追いつくまで、薄暗い駐車場で足を止めながら考えていた。きっとそういうことに慣れていくことが、もし今後、ずっとひとりでいた自分にもあるのだとしたら、それは多分、そんなに怖いことではないし、悪いことではないのだろう。今はそういう風に思える自分のことが、本当は一番不思議だった。
fin.
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