35 / 53

クライベイビー Ⅰ

「えー、明日もダメなんですか?ちょっと天海さんスケジュールどうなってんの、一週間も会えないなんて有り得ないんだけど」 『仕方ないだろ。それに毎日事務所で会ってるだろ』 「会ってるうちに入んないでしょ、あんなの!飲みの予定詰めすぎなんだよ、肝臓壊すぞ」 『煩いな、それに明日は飲みじゃない』 「え?飲み以外でなんか予定あるんですか?」 電話口で天海が少し口ごもったような気配がした。余りそういうことをしないひとだから、織部は携帯電話を耳に当てたまま、ついていたテレビの音量を下げた。天海はクールで近寄りがたい印象のある人だったが、本人がお酒と食べることが好きなこともあって、兎角交友関係が広いようであった。大体毎日誰かと約束をしてどこかで何かを食べたり飲んだりしているらしい。天海が残業をほとんどしないようにしているのも、そういった事情があるようだった。織部は毎日でもふたりの時間が欲しかったけれど、天海の中でまだ織部は優先順位が低いようで、誰とも予定がない日だけが消去法で織部に最後に回ってくる天海との時間になっている。もうちょっと彼氏なんだから俺のことを優先してくれと迫ったこともあったけれど、その時天海は何も言わないでいたが非常に面倒臭そうにしていたので、それ以来怖くて言うのを止めている。止めているからこんなことになるのはよく分かっているつもりだったが、まだ織部にも突っ込めない部分は多い。 「飲みじゃなかったらなんなんですかー?」 『あー・・・明日は矢野の家に行くから、無理だ』 「え?矢野さん?矢野さんの家行くんですか?」 『あぁうん』 矢野というのは天海の班の所員で、明るくて快活で天海とは真逆の印象のある人だったが、何故か天海とは仲がいいようで、同じ天海班で織部にとっては同期の須賀原の話によると、天海のアフターファイブの一角を占領しているのも彼女らしい。そして織部はというと、矢野にはなぜか敵対視されていて、用もないのに天海に話しかけに行くと、大抵ブロックされるか、織部の班のリーダーである夏目に告げ口されるので、後で怒られる羽目になる。もっとも、織部が天海と今の関係になる前は、確かに事務所の中で天海に一番近いのは矢野だったと思う。余りにも仲がいいので、矢野は既婚者であることもあって、ふたりは不倫しているのではないかと、誰かが噂をするのも聞いたことがある。しかし、飲みに行くのは知っていたけれど、家に行くほど仲がいいなんて聞いたことがなかった。噂が本当だなんて、今更織部は思わないけれど、なんだか気に入らないのは事実だった。 「なぁ、天海さん」 『なに。だから次開いてるのは来週の水曜だぞ』 「遠すぎでしょ、俺干からびちゃうよ。いやそうじゃなくて」 『なに』 「俺も一緒に行っていい?矢野さん家」 それに対して天海は少し考えるようにした後、それは矢野に聞いてみないと分からないともっともらしいことを言ったので、天海はなんとも思っていないのだなと、織部はその返事を聞きながら思った。いつかは矢野とも変な言い方にはなるが、決着をつけておいたほうが、今後のためにもいいと思っていたので、どうせなら誰が話を聞いているか分からない事務所の中より、外のほうが都合が良かった。矢野の家にいきなり行くのは、多少強引かもしれなかったけれど、多分そうやって強引にしなければ、きっと矢野とは決着をつけられない。天海が矢野に確認をしておくというのに返事をして、通話はやがて途切れた。会えない時間を埋めるみたいに、天海は電話を掛けたら一応折り返しをしてくれる律義さはあったけれど、恋人同士の甘い会話とは程遠くて、まるで業務連絡でも取っているみたいだと、沈黙した携帯電話を見ながら、織部は思った。 そして翌日、何故か矢野は織部が一緒に行くというのを了承してくれたようで、織部は天海と二人で矢野の自宅を訪ねる算段になっていた。矢野は出張から直帰らしく、朝から避けられているのではとこちらが勘ぐるほど、事務所内では矢野の姿は見なかった。残業をしない天海に合わせて、織部も一生懸命、リーダーである夏目に掴まらないように仕事をして、6時を少し過ぎたところで事務所を出た。天海は5時半の定時には仕事が終わっていたようで、須賀原がわざわざ席まで終わったということを教えに来てくれたのだが、結局織部のほうが終わらないので、待たせることになってしまった。駐車場で愛車のシーマに乗って待っていたらしい天海は、シーマの中をピースの匂いで一杯にはしていたものの、遅れてきた織部には小言の一言も言わなかった。そういうひとなのだ。それから矢野の自宅に天海の運転で向かう。矢野のマンションは事務所から少し離れた閑静な住宅街に建っているマンションで、旦那も働いているのでそれなりにお金もあるのだろう。結構高級そうなマンションに織部の目には見えた。天海は慣れているみたいに駐車場に車を止めると、部屋番号を押して、矢野がそれに軽く答えてロックを解くと、すたすたと早足で迷うことなく部屋まで向かった。 「おう、お疲れさま」 天海がインターフォンを押して、それに答えるように扉を開いたのは、確かに矢野だった。事務所にいる時は、矢野はいつでも長い髪をひとつにまとめていたし、天海とは反対に割ときっちりした格好が好きみたいで、上下揃いのパンツスーツを着ていたりするのだが、その時はマキシ丈のワンピースを一枚すとんと着ているだけで、いつもの矢野を知っているだけ、ひどく無防備に見えた。しかし、やっぱり天海は慣れているのか、矢野にそう短く挨拶をすると、そそくさと玄関で靴を脱いでいる。矢野は天海をちらりと見た後、当然みたいにその後ろに立っている織部のほうを見て、その目を少しだけ鋭くした。 「いらっしゃい、アマさん、と、お・り・べ・く・ん?」 「・・・こんばんは」 へらへらと取りあえず笑ってみたけれど、矢野はやっぱり険しい顔をしたままだった。そんな顔をするなら、来ることを了承しなければいいのに、と織部は思ってしまう。そんなふたりのやりとりに全く気付いていない天海は、勝手に靴箱を開けて、客人用のスリッパを二足取り出すと、織部の前に揃えておいた。そして自分は自分の分のそれを履き、矢野がまだ織部を睨み付けているのに、まだ気付いていないのか、もしくは興味がないようで、家主の矢野がまだ玄関にいるのに、すたすたと廊下を奥へと進んで行ってしまった。しかし矢野もその背中を見ながら、止めようとはしなかった。 「矢野ー、もうチビは寝たのか」 「いや、起きてると思いますけど、さっきからずっとアマさんが来るってはしゃいでました」 廊下の向こうで振り返って天海がそう言うのに、矢野はいつもそうしているみたいにそう答える。織部だけが客人用スリッパをもたもたとしながら履いていた。すると天海がリビングへ続く扉を開ける前に、それががちゃりと開かれて、旦那かなと思っていると、そこから天海の膝くらいしか背丈のない小さいものがどちゃっと入り込んできた。ぱちぱちと織部が瞬きをする。 「ふみちゃん!こんばんわぁ」 「ずっと待ってたのー!」 「おー、お前らまた大きくなったな」 天海はさっと廊下に膝をつくと、その小さいものをふたりとも抱き締めるようにして、その頭をぐりぐりと撫でた。きゃっきゃとふたりは喜んで、天海にかわるがわる抱き着いている。織部はまたぱちぱちと意図的に瞬きをして、そして助けを求めるみたいに近くに立っている矢野をちらりと見やった。すると、矢野はその意味が分かったみたいに、ひとつ小さく溜め息を吐くと、すたすたと天海ときゃっきゃとはしゃぐふたりに近寄って行った。織部も慌てて矢野の後ろを追いかける。 「美空(みそら)美星(みほし)。挨拶しなさい、今日はアマさん以外にもお客さんがいるの」 「こ、こんにちは・・・」 「えー?だれぇ?」 「ふみちゃん、こわあいー」 矢野が呼んだそれが、多分ふたりの名前なのだろうと思った。美空と美星は、織部のことを見上げて、本当に怖いのか、天海を両側からしっかり挟むみたいに抱き着いた格好でぴくりとも動かなかった。天海は何度も来ているから、きっと懐かれているのだろうけれど、この差はいったい何なのだろうと思って、織部はただ怖くないよという意味を込めて、頬を緩めることしかできなかった。 「織部、しゃがめ」 「え?」 その時不意に、天海がそう言った。 「そんな上から話しかけるやつがあるか、しゃがんで視線を合わせろ」 「・・・あ、はい」 天海の言うとおりに、丁度今、天海がやっているみたいに廊下に膝をついて座る。そうすると丁度小さいふたりの視線の先に顔がくるようになる。なんとなく予想はできたけれど、ふたりは双子らしく、顔がよく似ていた。そこで織部はもう一度、できるだけにっこり笑って見せた。 「こんにちは、織部です、よ、よろしくね・・・」 「・・・なんかこのひとやだ」 「ふみちゃん、あそぼー」 しかしまぁ結果は散々だったのだが。

ともだちにシェアしよう!