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クライベイビー Ⅱ

ふたりに引っ張られて、天海はリビングの端の色とりどりのマットが敷き詰められている場所で、美空が読んでほしいと渡した絵本を読んでいた。ふたりはさっきみたいに両サイドから天海にくっついて、絵本の内容に釘付けになっている。織部も一緒に遊ぼうかとトライをしてみたが、特に性格が大人しいらしい美星が泣いて嫌がるので、仕方なく少し離れたところにあるダイニングテーブルに座って、遠目から天海とふたりの様子を見ていた。いつもそうやって一緒に遊んでいるのだろう、子どもなんかいないくせに、天海の仕草は驚くほど自然だった。天海はいつも通りポーカーフェイスでやっぱり子ども相手にもにこりともしないのに、何故かふたりともすごく楽しそうにしていて、不思議だった。愛想なら百倍自分のほうがいいのに、あんな風にあからさまに拒絶されたのは織部にとっては久しぶりで、心の傷がじくじくと痛んだ。 「織部くん、アマさんと何か食べてきた?」 「あ、いや、なんも食べてない・・・です」 不意にキッチンにいる矢野に声を掛けられて、織部は天海とふたりの様子をまだ不思議な気持ちでじっと見ていたが、その視線を矢野に戻した。日々、矢野に注意されている敬語を忘れないようにする。ちなみにリーダーの夏目も織部が配属された当初は煩く言っていたが、あまり直らないので、兎に角内部の人間はいいけど外はダメという緩いルールにいつの間にか変更されていた。ワンピースの上からエプロンをつけた矢野は、そうしてみるとちゃんとそれらしいというか、ここでそうやって矢野が日々生活しているのだなということが、妙に生々しく分かって、少しだけそれを直視するのが憚れるような気がした。 「ふーん、私ら食べちゃったから、大したものないけどなんか食べる?」 「あ、じゃあ頂きます!えへへ」 「何笑ってんの、気持ち悪い」 「矢野さんなんかあれですね、人妻えろいっすね」 「アンタ頭カチ割られたいの?」 包丁を握ったまま矢野が言うので、カチ割る前にぶっ刺されそうだと思いながら、織部は得意のへらへら顔で誤魔化しておいた。事務所では班が違うので、矢野のことは余りよく知らなかったが、天海が信頼を置いているだけあって、矢野の立ち振る舞いはいつもスマートだった。織部の班の班長である夏目も同じ女性であるということもきっと関係しているのだろうが、矢野のことは個人的にも気に入っているみたいで、よくランチに誘いに行っていたり、何かにつけてリーダーになればいいのにという昇進話を持ち出していたりするようだった。昇進話はいつも断られているようだったが。矢野の同期には、織部はこれまた全く接点がないのだが、隣の班のリーダーである堂嶋という男がおり、矢野のキャリアではおそらくそろそろそういう話が出てもおかしくないのだろう。それでも矢野は相変わらず、天海のところで所員として役割を担っている。管理職を断っているのは、まだ子どもが小さいからなのだろうかと、織部はまた天海とふたりに視線を向けた。 「矢野さん、子ども双子だったんすね」 「そうー、ふたりだからほんともう大変。ひとりでも大変なのに」 「ふーん、今何歳なんですか?」 「今年、三歳になったばっかり。これでも大分マシになったんだけど、まだしょっちゅう熱出したりすんのよ」 「へー・・・大変ですね、ママ」 率直な感想をそう単純に呟くと、キッチンにいた矢野は少しだけ眉を潜めた。そしてややあって、キッチンからお盆に夜食を乗せて矢野が出てくる。てっきり天海の分もあるのかと思ったが、お盆に乗っていたのは織部の分らしいひとりぶんだった。矢野がそれを織部の目の前にぱっぱと手際よく配膳していく。どうやら今日の夜食はハンバーグだったらしい。 「どうぞ、味は保証しないけど」 「あざす!いただきます。天海さんはいいんですか?」 「あー・・・今あの子らからアマさん取り上げたら泣くから後で、かな」 言いながら矢野は織部の目の前の椅子に座って、肘をついて天海と双子を見つめる目をすっと細めた。確かに双子は天海を両サイドからホールドした格好で動かずに、天海の絵本を読む一定の調子の声が小さく聞こえる。織部はそれから目を反らして、とりあえず矢野が用意してくれた夜食に手を付けた。そういえば、手作りの料理なんて久しぶりだなぁと思いながら噛み締める。大学時代付き合ったり別れたり、もしくは付き合ってもいなかった女の子とは、家に行ってもすることがひとつだったから、手料理など織部は興味がなかった。正面を見ると、矢野はまだ肘をついて天海と双子を眺めている。 「矢野さん、うまいっす」 「・・・ありがと。お世辞でもうれしーわ」 矢野は言いながら口元を僅かに緩めた。こうして見ると事務所で明るく仕事をしている矢野は、確かにそこにいるけれどもどこか影を潜めたような印象で、そこでじっと天海を見つめる矢野は静かで、どことなくそれは天海に似ているような気がした。 「ねぇ、織部くん」 「はい?」 「ほんとにアマさんと付き合ってるの」 遠くの天海を見ていた眼を、矢野はふっと織部に戻して、唐突にそう切り出した。須賀原は鈍感そうに見えるのに、何故かそういうことにだけセンサーが働くみたいで、織部が何も言わなくても、ふたりの関係性の変化に何となく気付いていたようだった。いつだったかの会話の流れで思わず、織部が肯定してしまったので、須賀原はふたりのことはそれとなく知っていたけれど、矢野はおそらく知らないはずだった。けれど用もないのに天海のデスクにやってくる織部のことを、何となく他の誰かとは違う目で見ていたから、確信を与えるのは容易かった。多分、天海が矢野に織部も行きたいと言っているけれど、連れて行っても構わないかと話をした時に、矢野は気付いたのだろう。そうして織部は、矢野はそうしたら気付くだろうなということも、分かっていた。分かっていて、分かっていたからこそ、天海にそう確認させたのだ。 「ほんとです」 「アンタそういうひとだったの?私がこんなことを言うのはおかしいと思うんだけど、悪いけど興味本位でうちのリーダーに手を出すのはやめてもらえる?」 「興味本位じゃないですよ、真剣です、しんけん」 二回呟いて、織部は俯いて少しだけ笑った。矢野の眉間にしわが寄る。そういう人というのはゲイとかノンケとかそういう話だろうかと考える。天海にも散々言われたけれど、何故か同性と付き合っているという話になると、皆それを確認したがるのはどうしてなのだろう。いつも否定しながら、織部は不思議に思う。そんなことはどっちでもいいことではないのか。女か男かなんて、織部は余り重要ではないと思う。天海がたまたま男だったから、結果的に同性と付き合うことになっただけで、天海が女だったとしても、結果的には同じことになっていると思う。何か確証があるわけではないのに、不思議と確信的に思う。 「とても真剣になんて見えないんだけど」 「はは、矢野さんはホラ、すがちゃんにあることないこと吹き込まれてるから、俺のことちょっと誤解してるだけですって。ほんとの俺は超真剣なんですよ」 「・・・そうは見えないんだけど」 「えー、まいったなぁ」

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