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クライベイビー Ⅲ

あははと笑うと、矢野は一層渋い表情を浮かべた。そしてそのコーラル色の唇を割って、その時何かを言おうとした。しかしその時、矢野よりも早く織部の背中に声がぶつかる。 「矢野、チビがもう眠いって」 椅子に座ったまま声に反応して思わず振り返ると、さっきまで本を読んでいたはずの天海がマットの上で立ち上がって、美空か美星かのどちらかを抱いており、彼女は天海の腕の中で確かにうとうとしていた。そして片割れは天海の足にしがみついており、こちらはまだ覚醒しているようだった。矢野が椅子を引いて立ち上がり、ふっと織部の目の前からいなくなる。 「あー、もうあと寝るだけだから、隣転がしといていいですよ。美空も寝たら?」 「えー、やだぁ、ふみちゃんとあそぶー」 「みほしもあそぶー・・・」 「美星は眠いんでしょ。ハイハイ」 いつものことなのだろう、矢野はそんな風に言いながら、天海の腕からひょいとうとうとしている美星を抱き上げ、隣の部屋に入っていく。天海の足元に残された美空は、これはチャンスとばかりにやけに俊敏に動いて、読みかけだった絵本を引っ張ってくる。母親と消えた片割れにはあまり興味がないらしい。双子もいろいろ攻防があるのだなと、それを見ながら織部は思った。 「ふみちゃん、これ読んでー」 「美空も寝ような、読んでやるから」 「えー、じゃあ、みそらも抱っこして、ふみちゃん」 両手を広げてにっこり笑う美空の手から絵本を取ると、天海は正面から彼女をひょいと抱き上げて、矢野が消えた部屋の中に入っていく。織部はその先を追いかけていいのか少し迷ったけれど、そろそろとダイニングテーブルを離れて、隣の部屋を覗いてみた。隣の部屋は寝室のようで、広いベッドの端っこに美星が既に矢野によって寝かされており、その真ん中に何故か天海は横になって、そのまた隣に覚醒したままの美空がにこにこ顔で天海に寄り添っている。矢野は美空に布団をかけると、そのまま部屋を出てくる。矢野が部屋の扉を閉める直前に、天海が絵本を読みだす声が微かに聞こえた。 「・・・いつもああなんですか、天海さん」 「まぁ大体あんな感じ。寝るまで面倒見てくれるから楽させてもらってる」 「ふーん・・・」 あんな感じが普通なのか普通じゃないのか、織部にはよく分からなかったけれど、矢野が普通にしているので、ふうんとしか言いようがなかった。矢野が無言でダイニングテーブルを指さして、座れということなのかなと思ってそれに従う。話は終わっていなかった。肝心の天海もいないし丁度いいのだろうと思ったけれど、織部はこの段になって、少しだけ天海がいないことを不安に思った。 「まぁ別にふたりとも大人だし、アマさんが了承してるなら私がとやかく言う理由なんてないんだけど」 「はぁ」 椅子に座るや否や、矢野は今まで言うことを考えていたみたいに少し捲し立てるようにそう言った。それに曖昧に返事をすると、矢野はまた渋い表情になる。 「なんかイライラするっていうか、気に入らない。織部くんのことも、そんなこと簡単に了承しちゃうアマさんも」 「・・・いやここまでの道のりは簡単じゃなかったすよ、俺は必死でした」 「そんなの聞きたくないんだってば」 言いながら、矢野は少しだけ笑った。 「矢野さん、天海さんのこと好きだったんじゃないですか、もしくはまだ好きとか」 「・・・そうだなぁ・・・」 もっと過剰な反応が返ってくるかと思ったけれど、その時矢野は珍しく自信がなさそうに、小さくそう呟いただけだった。思わず織部は拍子抜けする。矢野のそれはきっと嫉妬だ。もしも名前を付けるなら。天海の一番近くの一番理解者だと、今までは無邪気に信じていられたけれど、それが織部の出現によって崩れた事実が、気に入らなくて気に食わないだけなのだ。今まで誰かに嫉妬のような感情を覚えるほど、執着した経験のない織部にも、何となくその感情を想像することはできた。不倫なんていう事実はないし、きっとそれだって矢野と天海の仲に嫉妬した誰かが、流した悪質な噂に過ぎない。けれどきっと矢野の中にはそういう感情があって、それがきっと誰かにそんな風に囁かせることになったのだろう。ちらりと正面に座っている矢野の様子を見やると、ぼんやりした目をして何かを考えているようだった。それは天海のことだろうか。 「好きだったのかなぁ」 「そこ疑問形なんすね」 「でも好きだなんて言わせてもらえなかったよ、私は。織部くんのことがほんとは羨ましいのかな」 言いながら矢野は俯いて、はははと笑った。 「ほんとはちょっと考えたことあるの。旦那とあんまり上手くいってなかったとき、仕事もうちは皆激務でしんどいじゃん。子どもはアマさんのこと大好きだったし、あー、これ別れてアマさんと再婚するのとか、どうかなぁって。まぁほとんど妄想なんだけど」 「でもそういう時に限って、アマさんウチに来て今日みたいに子どもと遊ぶの。まるで私の目を覚まさせるみたいに。そんなこと絶対しちゃいけないんだって、この子たちのために。もっとしっかりしろって言われてるみたいで」 「辛かったけど、でも嬉しかったな。そんな風に思われてるの私だけって、自負がどっかにあったから」 ぱっと顔を上げて矢野はまた肘をついて、織部を透かすような目をしてどこか遠くを見ていた。正面に座って話を聞いている織部ではなくて、まるで過去の自分を見ているみたいな目だと思った。そういえば、さっきまでの会話は天海の耳にも入っているのだろうか、入っていたのだろうか。何でもないようないつものポーカーフェイスで美空を抱き上げた天海は、織部のことを一度も見なかったけれど。 「ちょっと前に、私もう仕事辞めようって思ってた時期があったのね。あの子らの世話で大変だったし、仕事は好きだったけど、別に働かなくちゃ食べられないわけじゃなかったから」 「けどその時、アマさんが私に言ったんだよね。辞めるなって、絶対に悪いようにはしないから、キャリアも保証してやるから、俺がお前のことは守ってやるから辞めるなって、かっこよかったなー、今考えても」 「だから全部、アマさんのおかげなの。私が今、ちゃんと家族を守ってられるのも、仕事ができてるのも、全部。あの人のおかげなんだ。だから好きっていうか、そりゃ好きなんだけど、多分もう、そういうのでもないのかもしれない」 言いながら、矢野はどこかすっきりしたみたいに、にこっと笑った。それはやっぱり事務所でよく見ている矢野の明るい笑顔で、織部はなんだかそれを見て少しだけ安心した。そんなことを自分が思うなんて生意気なのかもしれないけれど。班にはそれぞれ特色があるらしく、織部は入社時から夏目の班で、異動もしたことがないので、他の班のことはよく知らないが、一見クールに見えて、実際印象を上回るクールな天海が、矢野相手にはそんな風に熱いことを言ったりしているのは、なんだか不思議だと思ったけれど、それは外から見た他の誰かにはきっと分らないことなのだろう。それは少し寂しい気がするけれど。 「なんかいいすね、そういうの」 「そう?夏目さんだって意外とちゃんと織部くんのことは見てくれてると思うけど」 「そうですかー?俺怒られてばっかりですよ、うるさいんすよ、夏目さん」 「上司に煩いやめなさい」 あははと笑って矢野はそのまま不意に立ち上がると、部屋を横切って隣の部屋の扉をそっと開けた。そこからはもう天海の声は聞こえなかった。 「織部くん」 矢野が扉を押さえたまま、織部の名前を呼ぶので、織部も椅子から立ち上がって矢野の後ろから部屋を覗きこんだ。まだ電気がついたままの部屋の中で、美空と美星が眠るその真ん中で、天海も手に絵本を持ったまま、静かに目を瞑っていた。 「・・・ねてる」 「アマさん大体ウチくると寝ちゃうんだよねー・・・」 言いながら矢野はそっと寝室の電気を消した。 (天海さんアンタ大事な人なんていないって言ってたけど) (ちゃんといるんじゃん) 矢野がそのままそっと音をたてないようにして、寝室の扉を閉める。天海はふたりに挟まれて、そのままじっと身じろぎもしないでおとなしく意識を手放して眠っている。天海が絶対に自分よりはやく眠らないのを、織部は知っている。何を警戒されているのかまだ分からなかったけれど、多分、まだ自分の隣では安心して目を閉じることができないのだと、なんとなく織部は分かっていた。先に意識を手放すことが、一体どれだけ無防備なことなのか、天海はよく知っていると思ったから。 「やっぱり俺、矢野さんには敵わないかも」 「何言ってんの、当たり前でしょ。っていうかアマさんも寝たしアンタいつまでいんの、いい加減帰って」 「えー!俺も泊めてくれるんじゃないすか」 「泊めるわけないでしょ、アンタみたいな色欲の塊。旦那に殺されるわ」 「心配しなくても矢野さんには何もしません。人妻えろいけど」 「煩い、帰れ!」 fin.

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