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サイハテトレイン Ⅰ

「織部、着いたぞ、起きろ」 肩を運転席に座る天海に揺さぶられて、織部は薄っすらと目を開けた。あたりは薄暗くて、コンクリートの壁が目に入ってくる。いつの間にか、事務所の入っているビルの地下にある駐車場に車は止まっていた。ぼんやりした頭のまま目をこすると、エンジンを止めた車の中で、天海はすっかりシートベルトを外しており、煙草に火をつけてそこで一服をはじめた。ちらりと腕時計を見やると、まだ始業まで30分近く早かった。真中デザインはいつも激務であったから、この時間に事務所に上がっても、誰かしらもう早く来ていて、仕事を始めているだろう。織部は考えながらひとつ欠伸をした。それにしてもまだ眠かった。 「天海さん、ごめんね、俺寝てた」 「別にいい、早く行け」 天海は旨そうに目を細めたままタバコの煙を吐き出すと、織部のほうは見ずにじっとフロントガラスを眺めている。天海の部屋に泊まることが時々あって、次の日が仕事だと職場まで天海が車で送ってくれるようになって久しい。はじめのうちは頑なに一度家に帰れと言われていたのだが、服さえ着替えれば、特に天海は文句を言わずにいるので、織部はお泊りの日は女の子みたいに、次の日の着替えを鞄に詰めて持って行っている。そして職場に着いてからは、絶対に車を一緒には降りないで、織部のことを先に降ろした後、始業ぎりぎりまで多分車の中でタバコを吸っている。天海には朝のこの時間も必要らしかった。 「なぁ、天海さん」 「なんだ、早く降りろ」 「天海さんってなんで車通勤なの?やっぱ電車煩わしいから?」 「・・・」 「俺も車買おうかなぁ・・・でも車って維持費が結構するよなぁ」 天海が早く降りてほしいと思っていることが分かっているから余計に、織部はそれを邪魔するみたいに悠長に喋りながらシートベルトを外した。車通勤をしている職員は、天海の他にもいた。大体が管理職で、そういう意味では天海が車通勤をしていることは、特別不思議なことではなかったけれど、織部はその時、なんとなくまだふたりで喋っていたいような気がして、そんなことを言っただけだった。 「・・・まぁ、煩わしい・・・うん」 「え?」 まだ眠たい頭で聞き返す。端的な天海にしては珍しく、その時何かをそうして天海は言い淀んだ。 「なんかあんの、理由」 「いや、別に大したことじゃない」 「なにそれ、教えてよ、天海さん」 甘えた声を出すと、天海はそれに少しだけ眉間に皺を寄せて困った顔をした。大したことじゃないなんて言われたら、余計気になった。別にただの世間話のつもりだったけれど、天海の知らない部分に触れることができるのではと、織部は少しだけわくわくしていた。 「・・・昔は俺も電車通勤してたんだけど、朝は満員だろ」 「あぁ、うん。それが煩わしかったんじゃないの?」 「いやまぁ、それでよく痴漢にあって」 「・・・は?」 興味本位で聞き出そうとしたことを、そこまできて織部は少しだけ後悔した。さっきまであんなに眠たかったのに、眠気はいつの間にかどこかへ消えている。天海はいつもはこんなことで照れたりはしないけれど、その時は少しだけ視線を下げて、多分それは照れた顔ではなかったけれど、一応天海でも男としてのプライドがあるのか、気まずそうにはしていた。 「ちかん・・・?」 「あぁ、でもまぁ、ちょっと触られたくらいじゃイくこともできないし、駅のトイレとかでディルド突っ込んで抜いたりしてたんだけど、ある日なんで自分で処理してるのか分からなくなって、虚しくなってやめた」 「ちょっと待って処理が全然追いつかない・・・!ディルドって何・・・!?」 「見たことないか。男性器のホラ」 「なんとなくわかった・・・!」 背中が薄っすらと寒い。天海と話をしていると、主にこういう話をしていると、天海はやっぱり自分とは全然生きてきた場所が違うのだなと思うことがある。そういう天海のことを、多分一生かけても理解できないのではと背筋が寒くなることもある。もしかしたら理解されることを天海は望んでいないかもしれないし、理解する必要もないのかもしれないが。 「それから車通勤に変えた、理由はそれだけ」 「・・・すげぇ理由だな・・・」 朝からすごい話を聞いてしまった、と織部が顔を青くして思ったのが先週のこと。 「本気か」 「本気、本気、見てよこのトレンチ、変質者用コートっぽいだろ?」 ベージュのそれの前を開いて、織部はにっこりと笑った。天海が電車通勤をしない理由を聞いたのが、先週のことで、それはなんでもない雑談の流れで、とんでもない地雷を掘り当ててしまった、と織部はその時思ったのだが、何故かそれからほぼ一週間後、退勤者で賑わう駅のホームに、織部は天海とふたりで立っていた。電車に乗ろうと声をかけたのは、織部のほうだった。 『電車?なんで』 『天海さんこの間、痴漢の話してくれたじゃん。ちょっと興味あるっていうか』 『興味?』 『天海さんのこと痴漢したいなーって、俺も』 『は?』 『知らないおっさんに触られてよくて俺がダメな理由はないだろ?』 天海の返事は、本当は聞かなくても分かっていた。それから少し状況を整理するための短い沈黙のち、天海はいつものように『別にいいけど』と答えた。織部はそれを聞きながら内心「だろうな」と思ったくらいだ。天海ははじめのころ織部の手をあんなに嫌がっていたくせに、いざ付き合うということになると、尤も天海が自分との不確かな関係をどう思っているのかは不明だが、付き合っているということに対して否定しないので、とりあえずはそれであっているのだということに織部はしている、付き合ってからは、性的なことについての織部からの提案に首を振ったことはほとんどなかった。だから今度も天海なら頷くと思っていたし、拒否されないのが分かっていたから、わざわざトレンチコートまで準備して待っていたのだ。織部は奥歯を噛みながら、電車の来訪を告げる電光掲示板を見やった。それがいいことなのか悪いことなのか分からない。 (天海さんの中で知らないおっさんと俺の間に、本当に違いなんてあるのか) (分かんないんだろうな、俺が何でこんなことしたいって思ってるのかとか、考えようとも思わないんだろうな) ひとりで考えながら、隣に立つ天海を見やる。天海が痴漢にあっていたのがいつ頃のことなのか、織部は知らない。織部が天海を認識したときはもう、天海は管理職だったし車通勤をしていたはずだった。だとしたらそれは自分が入社する前の話になる。そんな昔の話に、その誰とも知らないおっさん相手に、嫉妬しているなんて天海は思わないし考えもつかないだろうことは分かっていた。 (天海さんが過去の男としてきたことは全部、俺で上書きしてやるからな) それもまた難しい話になることを、なんとなく織部は分かっていたけれど、まるで誓いでも立てるみたいにそう思うしか方法がなかった、今は。

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