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誰でもロンリー Ⅰ

都市伝説みたいな話だなと、それを聞いた時には思った。 職場からほどほどに遠くて、知り合いに会わないだろうゲイバー『aqua』に通い詰めていた自覚はあったけれど、常連なんて言葉で呼ばれているほどになっているとは知らなかった。割と容姿は整っていたから、学生時代から女の子にはモテたほうだと自負しているが、もうその頃から恋愛対象が同性だったので、女の子からの熱視線は、自尊心こそ慰めてくれたが、性欲は満たしてくれなかった。ゲイのうち多分半分くらいは、そういう性欲を満たしてくれる存在を求めて、こういうバーにやってくる。土岐田はどちらかと言えば、きちんとしたお付き合いをしたいタイプだったので、その日限りの快楽は、過ぎればただの虚しさに変わることは分かっていた。だから常連になるまで通い詰めたそこで、声をかけてきた男と一度も寝たことはない。 ただその土岐田も、一度だけ、声をかけてきた男とセックスをしてみようかと思ったことがある。それがこの店でまことしやかに囁かれる『ウミちゃん』という男に声をかけられた時だった。『ウミちゃん』は、それはそれは綺麗な顔をした男らしい。『aqua』に度々やってきては、その日限りの男を探していると、誰かから聞いた。『ウミちゃん』のルールはひとつだけで、一度寝た男とはもう寝ないということ。はじめて話を聞いた時は、そんな都市伝説みたいな話が、こんなところでは真実みたいに語られているのだなと思いながら、土岐田とセックスをしたいらしい男が、丁寧に教えてくれるのを、ぼんやりしながら聞いていたのだった。 「なぁ」 その翌週、いつものようにカウンターでひとりでお酒を飲んでいると、急に話しかけられて、と言ってもここではそういうことはよくあったので、何にも気を回さずに、ふっと声のしたほうを見やった。すると土岐田より少し背の低い男がそこには立っていた。真っ黒の髪に真っ黒の目、真っ白の肌がまるで作り物のようだと思った。一目見た時に、何故か確信した。この男が『ウミちゃん』なのだと。自分でもどうしてそう思ったのか分からない。もっとギラついているのを想像していたけれど、実物は思ったよりも小奇麗で、確かに美しかった。けれどその日限りの男を漁っている割には、やけに静かで凪いでいた。その涼しい横顔は、本当に今日限りの男を探し歩いているようには見えなかった。そしてそんな必要も彼にはないように見えた。土岐田がぽかんとしていると、『ウミちゃん』こと天海は土岐田の隣のスツールを指さした。 「ここ空いてる?」 「・・・あぁ、うん、空いてる、けど」 今日の『aqua』はそんなに混んでいない。土岐田の隣でなくても、別に座るところなら他にもありそうだったが、それを指摘するのは野暮だった。天海が隣に座ってくるのを、横目で観察しながら、土岐田は今日のカモにされるのは自分なのだと理解した。それにしても他の客の話から察するに、どうも『ウミちゃん』はネコのようだったが、ネコの自分に声をかけてくるなんてことがあり得るのだろうかと、カクテルを飲みながら思う。それともまたタチと間違われているのか。彼らがどういう基準でそれを判断しているのかはよく分からないが、土岐田は生まれてこの方、一度もタチなんてやったことがないのに、よくタチと間違われていた。 「もしかしてウミちゃん?」 「・・・なんだ、俺のこと知ってるのか」 「へー、やっぱりそうなんだ、都市伝説かと思ってた。会えて光栄です」 冗談めかして言いながら笑うと、天海はにこりともしないまま、土岐田の首から下がっているネクタイをぐいっと引っ張った。思わず左手でグラスが倒れないように押さえる。 「俺も会いたかったよ」 天海はどちらかといえばかわいらしい顔に不釣り合いなほど低い声でそう囁くと、ネクタイを引っ張って意図的に近づけた土岐田の首筋のラインを、たぶん全く躊躇せずに、まるでそうするのが当然みたいにべろりと舐めた。びりびりと頭の弱いところの神経が痺れて、一瞬にして顔が熱くなるのが分かる。息遣いが分かるほど近くにいるはずの、天海の顔など見ることができなかった。そうして天海は勿体をつけるみたいに、ゆっくりと土岐田のネクタイを指の中から外した。 「・・・ホテル、行こうか」 ここに性欲を満たしにやって来ている人間は多いけれど、余りにも展開が早すぎた。まだ名乗ってもいないのに、と思ったけれど、土岐田は天海の顔を見ることができないで、残った自分のカクテルを見ながら、まるでそれ以外の選択肢がないみたいに、気づけばこくんと首を動かしていた。 やけに早足になる天海の後について、バーの外に出ると、外は随分涼しかった。一瞬で熱せられた頭が、少し冷えるようで気分が良かったけれど、それは残念ながら土岐田の頭の中をいつものように冷静にするのには、少しばかり冷却速度が遅かった。天海は行く場所が既に決まっているみたいに、すたすたと土岐田の少し前を迷いなく歩いていく。おあつらえ向きに、『aqua』の近くにはホテル街があるのだ。土岐田は少しだけ冷静になった頭で、目の前の名前もよく知らないこの男と自分は今日セックスをしてしまうのかと考えた。タチネコは一体どうするのだろう、『ウミちゃん』はネコの相手もするのだろうか、そんな話は聞いたことがないけれど。逆に自分がタチをするのはどうなのだろうと、土岐田はひとりで考える。今まで一度もやったことがないけれど、全然知識がないわけではないし、やってできないことはないと思うけれど、けれど土岐田はネコにはネコなりのプライドがあると思っていた。それがどんなプライドなのかはうまく説明できないけれど。 「ここでいい?」 「え?あ」 いつの間にか前を歩いていたはずの天海は立ち止まっており、白くひっそりと建つホテルを指さしていた。天海の真っ黒の瞳にじっと見つめられると、考えていたことが消し飛ぶ。天海の瞳は漆黒で闇のようで、それなのにどこか不思議に光っている。なんだかよく分からないけれど、ウミちゃんと寝たという男が挙って自慢げにその話をするのも、少しだけ分かるような気がした。あの顔は、あの涼しい顔は、セックスをする時に一体どんな風に歪むのだろう。それには少しだけ、ネコの自分ですら興味があった。返事を忘れてただそこに立ち竦んでいた土岐田の手を、すっと自然な動作で天海は掴むと、そのホテルに引っ張り入れるみたいに少し強引に引っ張った。土岐田はまたはっとして、少し低い位置にある天海の顔を見やる。 「なに、怖い?」 「いや・・・別にそういうわけじゃ」 「なら早く来いよ」 手のひらを爪で軽く引っかかれて、背筋がびりびりと痺れた。そのまま中に引っ張り込まれて、ホテルのエレベーターの中に詰め込まれる。手慣れた動作で天海が部屋番号のある階のボタンを押すのに、頭がまたぼんやりとしてくる。都市伝説の男に興味がないわけではなかったけれど、土岐田はどちらかといえば天海とは別で、自分の恋人以外とセックスはしたくないと思っていた。思っていたから、バーでいくら声をかけてきた男がタイプでも、相手に付き合う気がなければセックスはしなかった。未だにそんな女の子みたいなことを言っていられる年齢でもないことは分かっていたけれど、土岐田はそれでもどこかで信じていたかった。自分にもそういう恋愛の末に、その行為が存在しているのだということを。 「あのさ、ウミちゃん」 「なに。知ってるかもしれないけど、俺は一度寝た男とはもう寝ないから」 「・・・あぁ、うん。聞いたことある・・・」 エレベーターの密室に、天海の体からわずかにピースの甘い匂いがしていた。その清廉潔白そうな横顔がそう呟いて、やはりこの男は『ウミちゃん』に違いないのだと、何度目なのか、土岐田は改めて思った。けれどその時土岐田がしたい話はそれではなかったが、なんとなく彼が放つ雰囲気に飲まれてしまっている。飲まれてこんなところまで肝心なことが言えずにつてきてしまっている。 「・・・そうじゃなくて、あの」 「なに。お前どんなセックスするの」

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