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誰でもロンリー Ⅱ

「え・・・」 「ソフトなSMくらいには付き合うけどハードなのは無理だから。あとは割となんでもいい、お前が好きなの何でもやってやる」 「・・・―――」 言いながら天海が振り返って、土岐田のことを正面から見た。暗がりに天海の唇はやけに赤くて、きっと訪れるはずの快楽を待てずに興奮している証拠なのだろうと思った。それに本当のことを言わなければと思いながら、何も言うことができないでいる。多分本当のことを言えば、この美しい顔の男は簡単に自分に背を向けることを、土岐田だけは分かっていたからかもしれない。言葉を失う土岐田の手を取って、天海は少しだけ背伸びをして、土岐田の唇を下から塞いだ。塞いだけれど、それは触れて離れるだけの、やけにかわいいキスだった。耳が熱いと思ったら、その天海の後ろでエレベーターの扉が開いた。 「ウミちゃん」 「ちなみに、一度っていうのは一晩っていう意味だから」 「え?」 「何にも出なくなるまで、付き合ってくれよ」 言いながら天海は知ったようにホテルの扉の前に立ち、まるで自分の家みたいな迷いのない所作でそれを開いた。扉を開くと中は暗くて、土岐田はこんなセックスをするためだけの部屋に来たのはいつぶりだろうと考えた。また天海に腕を引かれて前につんのめりそうになる。 「何か飲むか?」 「・・・あのさ、ウミちゃん」 「お前童貞なの」 「違うよ・・・ってか話を聞いて・・・」 「ふーん、違うのか。あんまりギラギラしてないから。遊んでるように見えるけど、慣れてないのか、こういうところに来るの」 冷蔵庫を開けて中に入っていたビールの缶を投げてくるので、仕方なくそれを受け取る。土岐田は、それはあなたが慣れすぎているだけだろうと言いたくてどうしても言えない。天海はまるで家で寛いでいるみたいにベッドに腰かけて、ビールの缶を開けてそれをぐいと飲み干した。土岐田も天海から少し離れた場所に座って、仕方なくプルトップを指で弾いた。こんな風に毎回、名前も知らない男の腕を引いてここまで連れてきているのかと、その何も悪い遊びなど知らなそうな美しい横顔を見ながら思った。一回寝ればそれで終わりの男の役割とは、一体何なのだろう、天海は一体何が欲しくてこんなことをやっているのだろう、何の目的で。多くの男たちがそうするように、それは性欲を満たすためだけに存在しているのだろうか。それを尋ねてはいけないような雰囲気が、こちらに絶対に尋ねさせない雰囲気が、半分夜に溶けている天海にはある。 「風呂入る?」 「・・・―――」 きた、と思いながら土岐田は背中をびくつかせた。するりと首筋を後ろから撫でられて、首が勝手に引っ込む。結構な距離を持って座る場所を考えたはずだったけれど、天海はいつの間にかさっき座っていた場所から移動して、丁度土岐田の真後ろにいるようだった。 「あ、あー・・・入ろう、かなぁ?折角だし」 何が折角なのかよく分からないが、誰かに聞かせるためのようなやけに大きな声が口から出てきて、土岐田は自分でも吃驚した。風呂なんかに入っている場合ではないのにと思う自分と、時間稼ぎにはなるかなと思う自分が、頭の中で喧嘩する。もう少し天海と一緒にいたかった。もう少しこの男と話をしてみたかった。そのためには時間稼ぎが必要だった。 「あ、そう」 後ろで天海のなんでもない声がする。それに心底ほっとしている自分がいた。何でもよかったから、もう少し冷静になって考えたかった、この場をうまく立ち回る方法を。土岐田がベッドサイドのテーブルにビールが残っている缶を置いて、立ち上がろうとすると、ジャケットをぐいと引っ張られて、そのままもう一度ベッドに座る格好になる。なんとなく耳の裏から、よくない雰囲気を察知しているのに、土岐田はそこを動けなかった。白い手が土岐田の首を撫でて、後ろから器用にネクタイに絡んだ。 「・・・お、ふ、ろ・・・に・・・」 「入るの?俺は別にこのままでも、いいよ」 そのままうなじにキスをされて、べろりと舌が這う感触がする。ぞくぞくと神経が痺れても、この男は土岐田が欲しい快楽をくれる男ではないことは分かっている。そして多分、自分は『ウミちゃん』が探している男でもないことを、土岐田だけは分かっている。 「ちょっと、待って、ください!おれ、ネコなんで!」 もうこうなったら力業しかなかった。体が危機を感じるみたいな方法で、土岐田はそう大声で、何もない暗闇に向かって気付けばそう叫んでいた。天海の手が、男の欲望のスイッチを知り尽くした天海の手が体の上でぴたりと止まったまま、動かない。恐る恐る振り返って天海の顔を見ると、ベッドの中央で膝立ちの姿勢のまま、土岐田のネクタイを右手に持って、天海は呆然としていた。 「・・・ジョークか?」 「すいません、ほんとです・・・ちょっとウミちゃんに興味あって・・・それで」 ネクタイを持ったまま、天海は静かに逡巡しているようだったが、怯える土岐田の顔が演技でないと分かったのか、小さく息を吐くと、持っていたネクタイをぱっと離した。呆気なかった。やはり『ウミちゃん』にとっては、自分は必要のない人間なのだとそれで分からせられた気分だった。 「タチネコ間違えるなんて、俺もヤキが回ったな・・・」 そうして天海が呆れたように自分に向かって呟く横顔は、さっきよりは少しだけ安心して眺めていられた。天海は土岐田にはもう用はなくなったのか、ベッドの端まで行くと、鞄を漁ってタバコを取り出し、いささか苛々した所作でそれを銜えた。そしてライターでスマートに火をつける。暗い部屋の中で一瞬、炎が天海の横顔を照らし出し、そしてまた闇に溶かしていく。 「・・・ウミちゃん、あの・・・」 「なんだよ、俺、男を犯す趣味はないからもう帰れ」 「いやぁ・・・別に犯されようと思って俺もここまで来たわけじゃ・・・」 「じゃあなに、突っ込んでくれるの、お前」 ふうと長く天海が吐き出す息が、白くけぶっている。土岐田はその天海の期待した目から逃れるみたいに視線を反らして、何にもない壁のほうを見るしかなかった。 「・・・考えたけど、やっぱ無理そう・・・ごめんね」 「ッチ。言うならもっとはやく言えよ、なんでここまで来て」 言いながら天海はまたくるりと前を向いた。その美しい形をした後頭部を見ながら、土岐田は勝手に眉尻を下げる。天海はそこで確かに怒っているようだったが、それはどちらかと言えば、タチネコを間違えた自分に苛立っているみたいで、相変わらず凪いでいる一定の低い口調は変わらず、それは土岐田を怒鳴ったりはしなかった。一晩限りの男を求めて、ゲイバーをうろつくその背中は、そうしてその目的でしか使用されない部屋の中で随分頼りなく、そして小さく見えた。 「俺さぁ、好きな人としかそういうことしたいと思わないんだけど、ウミちゃんは違うんだよね」 「・・・今時、そういうやつのほうが珍しいだろ」 「そうかなぁ、でも俺は信じてるんだよ、いつかさぁ、俺のこと一番好きだって言ってくれる人が現れてさ、俺のこと抱き締めてキスしてくれること。そういう運命みたいな恋愛したいじゃん、その先にあるもんだよセックスって」

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