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いつか訪れる日の祝福 Ⅰ

今日も『aqua』は混んでいた。特別誰かと待ち合わせをしているわけではなかったけれど、仕事で疲弊した頭のままで一人の部屋には帰りたくないと思って、体は疲れているのに何となく、立ち寄るといつものお酒が染み渡ってやっぱりこれがないと生きていけないと、土岐田はひとりで思った。これだけ混んでいたら、誰か知り合いがいそうなものだったが、一人で帰りたくないと思ったくせに、ここまでくると誰かの話声をBGMにお酒を飲んでいるだけでよくって、それ以上のことはなんだか面倒臭いような気になるから不思議だった。明日もあることだから、後一杯飲んだから帰ろうかなぁとぼんやり土岐田が思っていた時だった。 「いや、俺、そういうんじゃないんで・・・」 焦ったような誰かの声が聞こえて、何となく雰囲気だけで揉めているような気がして、ふっと無意識にそちらに視線を移した。すると土岐田の座っているスツールの近くで、見たことのあるスーツの背中が困ったようにじりじりと後退しているのが目に飛び込んでくる。 (あれ、どっかで・・・) 考えながらグラスを持ったまま、スツールを降りる。近寄って横から顔を確認すると、確かにあの日、天海を追いかけて『aqua』にやってきた天海の部下らしい男の子だった。今日は天海はいないのか、これから来るのか、土岐田には分らないが彼はひとりでいるようだった。 「そういうんじゃないってどういうこと?ここどこだか分かってるの?」 「いや、あの」 困ったように眉尻を下げた彼は、言いながらまた足を後退させている。どうも彼に言い寄っているらしい男は、持っていたグラスをテーブルの上に置いて、そのまま慣れた様子で彼の腰に手を回した。びくりと体が硬直するのが、離れた位置にいる土岐田にも分かった。 「ひっ」 「あ、分かった、はじめてなんでしょ?あんまり見ない顔だと思った。大丈夫、優しく教えてあげるからさ・・・」 ノンケだと分かっているだろうに強引な奴もいるものだと思いながら、土岐田はグラスをカウンターに戻して、目を白黒させている織部のところに大股で近づいて行った。 「あ、こんなとこにいたんだー!待たせるなら連絡してくれよー」 できるだけ明るい声で言いながら、織部の腕を掴む。男の手がするりと抜けるのが分かって、土岐田は体を反転させて織部を正面から抱き締めた。びくりとさっきと同じように、織部の体が硬直するのが分かる。一瞬離されそうになるのを強引に寄せて、耳元で囁く。 「じっとしてて」 「・・・え?」 織部の戸惑ったような声が側で聞こえたが、土岐田をはがそうとしていた腕の運動は急に意図をもって大人しくなる。よし、と心の中で呟いて、どうも織部を口説きたかったらしい男を見上げて、にっこり笑う。誰かはすぐに思い出せなかったが、何となく知ったような顔だったから、話くらいはしたことがあるのかもしれない。土岐田は顔を覚えるのがあまり得意ではなかった。 「なんだ、トキの連れかよ」 「ごめーんね、かわいいでしょ、でも俺のステディだから他あたってくれる?」 「あー・・・はいはい、ったく」 割合あっさり引いてくれたことにほっとしながら、織部を抱き締めていた腕を緩める。それにしても名前も知られているとは思わなかった。一体誰だったのか、考えても思い当たる節がないところがなんだか怖いと思った。別段自分は天海のように、一晩限りの男を相手にしているわけではないのに。酒でも一緒に飲んだついでに口説かれたことでもあったかなと、考えながら掴んでいた織部のスーツを離す。 「ここで何やってんの、君」 「え、あ」 そうして向かい合うと、少しだけ織部の目線のほうが下だった。なんとなくそれにがっかりしてしまうのは、いつもの癖だった。男のことはひとつも覚えていなかったが、織部のことはよく覚えていた。あの日、土岐田が残業で天海との待ち合わせに遅れた時、天海と一緒にいた男だ。天海に後から聞いた話では、部下でノンケの癖に天海にしつこく言い寄っているようだったが、その後どうなったのか、そういえば土岐田は知らなかった。今日ももしかしたら天海を探しにこんなところまで来たのだろうか、それにしては随分軽装備だなと思いながら、土岐田がグラスを取りにカウンターまで戻ろうとすると、織部が何故か後ろからついてくる。『aqua』は混んでいたが、土岐田の座っていたスツールはまだ空だった。 「すいません、助けてもらっちゃって」 「別にいいけど、こんなとこ君が来るところじゃないから、早く帰ったほうが身のためだと思うよー」 「・・・あー」 それになにか答え辛そうにしながら、織部は土岐田から視線を反らした。天海を探しているのだろうか、別に天海の味方をするわけではなかったけれど、本気で天海も参っているようだったから、ここは黙っておいたほうがいいのかもしれないと思いながら、土岐田は隣の空いているスツールに目をやってから、もう一度織部を見た。織部はそこにまだ居辛そうに立っている。 「なに、今日もウミちゃん探しに来たの?」 「いや、別に、今日は天海さん関係なくて」 「関係なく?ますます何しに来たの」 ノンケに変なことを教えるなよと、この間言ったばかりだと思ったけれど、天海にすっかり開発されてしまったのではないのかと、若干織部のことを不憫に思いながら、土岐田は少しだけ優しい声色を自分が出していることに気づいているつもりだった。 「いやぁ、まぁ、社会見学?みたいな」 「・・・君はなんていうか、あれだな」 「あれってなんですか」 「まぁ、いいや。特に用事がないなら座れば」 空いているスツールを指さすと、織部はやけに大人しくそこに座った。こんな風によく知らない人間の言うことを聞いていたら、いつかひどい目に遭うぞと思いながら、土岐田は横目で織部の様子を観察する。もし、もう『ウミちゃん』に開発されてしまっているのだとしたら、もうすでに取り返しのつかない酷い目には合っているのかもしれないが。あの天海にあんな風に困った顔をさせることができる割に、そうして近くで織部のことを観察してみると、織部は見れば見るほど多分普通よりも少し容姿が整っているだけの男の子のように、その時土岐田の目には映った。だけどあの難攻不落の天海がもし陥落することがあるのだとしたら、ここでギラついている男なんかではなくて、相手はきっとこういう普通の男の子なのだろうなぁと、少し納得している自分もいるのだ、不思議なことに。 「なんか飲む?お兄さんが奢ってあげるよ」 「あ、じゃあビールで・・・ありがとうございます」 言いながら、織部が少しだけ頭を下げるような仕草をする。はじめて会った時は噛み付かんばかりの勢いで、あんなに威勢が良かったのに、さっきのが相当応えているのか、やけにしおらしいなと思いながら、土岐田は織部には見えない角度で笑って、カウンターの中に目を戻す。 「いいよー、あ、上条くん、こっちビールちょうだい」 「はーい」 今日はいつもより混んでいるから、バイトの上条も大変そうだ。その背中にオーダーだけを通すと、土岐田は自分のカクテルを少しだけ飲んで、またちらりと織部のほうを見た。

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