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第22話「ハルの自覚、ユキの無自覚」

「機嫌いいな」 光瑠のひと言に眉間に皺を寄せ、智幸はそちらをギロリと睨んだ。 「あ?」 無口な彼なら本来聞き流すだろう話題に反応した事すら珍しく、ポツリと溢してしまった本人である光瑠は目を丸くして睨むではなく智幸を見つめ返した。 「原田の髪触りながら鼻歌歌ってたから」 例の如く梅若からの放課後セックスのお誘い連絡すら無視して、携帯電話を座っている机に伏せて置き、前の席に腰掛けている原田のサラサラな黒髪を三つ編みにしたり解いたりを繰り返して遊んでいる。 今日は朝からこんな調子で、駅で身体がぶつかった他校生にすら「気をつけろよ」と言っただけで喧嘩にもならなかった。 明らかに様子がいつもと違う智幸を光瑠は怪しがり、原田の隣の席に座りながら由依を膝に座らせ、彼を見上げる。 「いい事でもあった?」 ニッと笑い、後ろから由依を抱きしめて光瑠は更に問い詰める。 「別に」 「梅ちゃんのお誘いも断ったじゃん」 「どうせ途中でヤマも来るだろ。めんどくせえ」 そう言いながら、また細い黒髪の束が三つ編みにされていく。 「ねー、ヒカル、今日はシないの?」 由依は細い。 体型で言えば光瑠の好みど真ん中で、足が細くてすらりと長く、胸も控えめで、ディテールがくっきりと出ていて美しかった。 一方で、原田は細さはありつつも太ももや尻はムチッとしていて胸も大きい。出るところは出ているタイプで、気弱な事もあり電車に乗ると痴漢に狙われるような女の子だ。 「んー、今日どーするよ、トモ」 「、、、」 智幸は少し考えた。 ここ数日集中していた目障りだった晴也の彼女はもういなくなった。 散々怒らせたが結果的に許され、数年ぶりに晴也にキスができた。 その後ずっと優しくされたわけではなかったが、それでも久々に触れた体温に、智幸は最近感じていた苛立ちがフッと消えて波のたたない穏やかな気持ちで過ごせている。 今日はセックスはしたくない気分だ。 晴也の肌や温度の名残りをまだ自分に残しておきたい。 「、、、」 数年ぶりの唇の感触をまだ忘れたくない。 (一度も、忘れたことなんてなかったか) ぼんやりと考えた。 「帰る」 「え?マジで?」 ぱたん、と智幸が持っていた黒髪の束が原田の背中に戻って行く。 彼女が振り向いて智幸を見上げる頃には、鞄を持ち上げて背負い込み、机から降りてドアに向かおうという体勢になっていた。 「わ、私も帰るっ!」 「ん」 拒絶するでも承諾して彼女の準備が終わるのを待っているでもなく、智幸はテキトーな相槌だけ打つとそのままドアに向かって歩き出す。 「あ、おいトモ!」 「え?あ、待ってよ!」 2人の後を追うように光瑠が由依を膝から下ろして鞄を手に立ち上がり、由依も急いで自分の鞄に手を伸ばした。 次の日は晴れていた。 「ふーん、別れたのかあ」 「意外だなあ。浮気とか普通にすんのかよ、女子って」 部活が始まるまでの20分、着替えと道具出しを済ませた晴也と御手洗は校庭の芝生のコートの上に座り込んでストレッチをしていた。 そこに隣り合った芝生コートに来ていたアメフト部の猪田も、コート同士を隔てる緑色のネット越しに加わって、3人で晴也と友梨の別れについて話し合っている。 「お前彼女いたことなかったっけ?」 「ねーよ。誰も俺の魅力に気が付かないんだなあ」 「あはは!腹とか割と引っ込んでんのにな!」 「でもさあ、晴也みたいな完璧なヤツ相手でも浮気するとか、友梨ちゃんどーかしてるわな」 猪田の言葉に御手洗は笑うのをやめ、晴也の方を向く。 先程から全然笑っていない晴也は、少しボーッとしながらグッと広げた脚の間に体を倒していた。 「あー、ありがとう。でもするやつはするんだよ、誰が相手でも」 自分からこぼれたその言葉に反応して、脳裏に思い出されたのは何故だか智幸の顔だった。 「未練とかないの?友梨はめちゃくちゃあるみたいだけど。今日もすげー泣き腫らした顔で来たよ、学校」 友梨と同じクラスである御手洗は昼休みにも彼女がトイレに篭って泣いていたと言う話を晴也に披露したが、別段、彼がボーッとしている理由が彼女である訳ではない。 「未練ないなあ。その程度の子かーって思ったら、めっちゃ気持ち悪くなった」 「ウシはそう言うところクールだな」 猪田もよく分からない部分を伸ばすストレッチをしている。 芝生はただの芝生ではなく、定期的にゴムチップを撒かなければいけない人工芝と言うものだ。水捌けが悪く、雨が降るとよく水没する。 「クールと言うか、当たり前だと思う」 「ま、その辺の男にサラッと処女あげちゃうとか割と引くよな。俺もパスだなあ」 そうは言っても、クラスメイトとしての友梨と御手洗の間には何も問題はない。彼女が失恋から立ち直ればいつも通りに友人として関わるのだ。 晴也はそれも見越して2人に自分達の話をしていた。 自分が何を話したところで、彼女に害が及ぶ事はない。 「てかさあ、その、浮気相手の男ってウシの友達なんだろ?」 「んー、友達とは違うんだけど、まあ、知り合い的な」 「そっちとは縁切ったんだろ?流石に」 「あー、、」 またぼんやりした。 脳裏に蘇った智幸は先日の切なそうな泣きそうな表情をしている。 「アイツはどうでもいいんだよなあ」 ぽつりとそれだけ言った。 「どうでもいいってどゆこと?縁切らないの?」 「切るも切らないも、そう言うのじゃないから、こう言うことされても気にならない」 「え?」 御手洗は理解できない、と言う顔をして、猪田は晴也が何を言いたいのかがよく分かっていない様子だ。 「んー、何て言ったら良いかなあ」 晴れ渡った空は高くて遠かった。 今日は雲が1つもなく、夏に向けて重たくなった湿気を吸い込みながら、晴也は2人の顔を交互に見る。 どちらも高校から仲良くなった友達で、もちろん晴也と智幸がどんな関係で何歳から一緒にいるかを知らない。 2人でどんなことをしてしまっているかなんてものは、家族や他にあと4人いる幼馴染みにも教えた事がなかった。 「、、、」 中学生の熟し切らない身体同士で熱に触れ合ってしまった事なんて、あの日以来お互いに話題にあげた事もなかった。 ただ「お前はまだそこにいて、俺を見ているよな?」とたまに確認し合うだけで。 危機が迫ったと勝手に智幸が焦ったときだけ、昨日のように支配し合う。 そうやって確かめて、また安堵したら離れて行く。 「、、、」 晴也からすれば、智幸は勝手だ。 そしてワガママで甘ったれている。 いつまで経っても何の覚悟も決めない。 (何の覚悟を?) 1人、物思いにふけてそう思った。 (俺はアイツに何を覚悟して欲しいんだろう) いや、そんなものはもう随分前から分かっている。 見上げた空は青いままだ。 (俺を自分のものにして、1人にしないで欲しいなら、きちんと求めて欲しいんだ) 晴也自身の覚悟は、実はもう随分前から決まっているような気がした。 (俺だけを見て、逃げないで、好きだって口に出せ。いい加減に) 2人が2人だけの時間に、どんな視線でお互いを見るかを誰も知らないでいる。 それを他の誰かが知る必要はない。 2人自身もまだ、完全に分かり合えた訳でも繋がれた訳でもないのだ。 「あいつは友達じゃないんだけど、それ以上の何かなんだ」 名前が欲しかった。 切っても切れない関係のその次の。 「だから縁がどうとか関係ないんだよ。他人が関われるようなものじゃないから。俺がアイツのそばにいるのも、アイツのそばに俺がいるのも当たり前だから」 20分が経とうとしていた。

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