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第30話「ユキと原田」

晴也に拒絶された日から、智幸は自分がどこを見ていて、何をするべきで、飯を食べたのか、空腹なのか満腹なのか、瞬きはどうやるものだったのか、色んな事が分からなくなってしまった。 「智幸くん」 自信がないとすぐ分かるその声に大した反応を返さず、智幸は黙って保健室のドアを開けた。 「あれ、どうしたの?」 50歳過ぎの保健室の教員は、もこもこしたふくよかな頬の肉を押し上げてにこりと笑う。 智幸は保健室の常連でもある。 「腹が痛い」と言ってよくサボりにくるからだ。 「頭」 短くそれだけ言うと、カーテンのかかっていない真っ白なベッドに向かい、掛け布団をバサッとめくって指定の黒いサンダルを脱ぎ、さっさと布団に潜り込んだ。 「頭痛いの?熱は?」 「ない」 常連と言うだけはあり、教員はニコニコしたまま智幸のワガママなサボりの理由をサラサラと保健室利用届けに書き込んでいった。 どうせこの紙を持って担任の元に行かないことも知っているが、決まりなので一応代わりに記入しておいてくれる。 少し遅れて、原田が保健室に駆け込んできた。 「あら貴方は?」 「あ、つ、付き添いです!」 「そうなの。あらあら、沢村くんモテるのね」 「、、、」 掛け布団を頭までスッポリとかぶって、智幸は黙って寝の体勢に入ってしまっている。 原田はカーテンで仕切られず、開けっ放しのせいで丸見えになったこんもりとしているベッドに視線を移し、ホッと息をついた。 「私ね、今日、外の学校行かないといけない日なの」 「え?」 「これからね。だからこの子頼める?」 おばさんと言うより、もはやお婆さんのように喋る人だった。 ゆっくりと回る椅子から立ち上がり、机の下に置いていた私用の鞄を持ち上げてニッコリと笑い原田を見つめる。 彼女は少し固まって硬い表情をしたが、恐る恐る見た智幸が何の反応も示さないところを見ると、下唇を一瞬噛んだ。 「だ、大丈夫です!面倒見ときます」 無理矢理に笑って返す。 「授業は?」 「今日はいいんです、本当、大丈夫ですから」 「あらそう?じゃあよろしく」 そう言う生徒が多いのだろうか。 やけにあっさりと保健室の教員は荷物を持って出て行ってしまった。 残された保健室内は開け放たれた窓からゆったりとした風が流れ込み、それに合わせてカーテンの裾がヒラヒラと遊んでいる。 夏は本当にすぐそこで、最近はだいぶ気温が高い日が続いており、夏服であってもたまにワイシャツの裾をパタパタと引っ張って仰がないと暑くて倒れそうだった。 「、、、」 原田は智幸が眠っているベッドに足音を忍ばせて近づき、見えないのだがその顔を覗き込む。 やはり布団を被っていて、顔は少しも見えなかった。 「トモ、、智幸くん」 「、、、」 「この、間の、、キス、ご、ごめん、ね?」 声は酷く怯えている。 それが智幸の耳にはハッキリと届いたのだが、今の彼には聞こえていても聞こえていないと言う状況で、何とも答えが返って来なかった。 (ハル) 智幸の頭の中には、3日前に言われた言葉がずっと響いて消えないでいるからだ。 『お前を1人にしない代わりに、俺が1人になるのは、もういやだ』 そんな晴也の言葉が胸に刺さったままで、ジクジクと彼を殺していっているのだ。 何を言っているのか、智幸にはまったく分からなかった。 晴也が何を意図しているのか、どうして自分が1人だと言うのか。 晴也に甘やかされ、ずっとワガママを言ってきた側の智幸には想像すらできなかった。 晴也のことを考える。 それをずっとしないで生きてきた彼には、晴也を1人にしないと言う選択肢を迫られた事がなかったのだ。 (ハルが、1人、、、俺は、?) 晴也が1人になるとして、それが嫌で自分を1人にされる。 智幸はその辺の点が繋がらなかった。 だからなんだと言うのだ。俺が1人になっていいのか。 八つ当たりばかりの頭の中は更にこんがらがっていき、けれど口を聞いてくれなくなった晴也には問い詰めることもできなかった。 あれから3日。話しかける事も、携帯からの連絡も電話も、全部拒絶されている。 智幸は、1人ぼっちだった。 (ハルがいないと静かだ。誰にも何にも文句言われないし、飯はとか聞かれない。多分、雨が降っても連絡は来ない) 布団の中は真っ暗で、息苦しくなって少し布を持ち上げる。 窓から流れ込んでいる夏の匂いを吸い込むと、何処か懐かしい気持ちになった。 (ハルと、夏休みはよく遊んだな) 愛しくて、遠い思い出だった。 お互いの距離の近さも知らずに周りの友達と一緒に遊び、別々に帰る。たまに一緒に晴也の家に帰って、一緒に夕飯を食べる。 あの頃はまだ、たまに智幸の父も家にいた。 母もあまり痩せていなくて、健康な女性に見えた。 (、、ずっとハルがいた) 玄関で手を握られる度、晴也だけはそばにいてくれると思えていた。 どんなに裏切っても、突き放しても、酷い事をしても最後は許してくれる。 そう言う存在だと信じて疑わず、ここまで生きてきた。 「ハル」 その名前は永遠だと思っていた。 「私なら、そんな苦しい智幸くんほっとかない」 「、、、あ?」 その一言に胸焼けがしてゆっくり起き上がると、ギシ、と低くベッドが鳴く。 伸ばした先の真っ白なシワのないワイシャツを智幸の右手が掴んで、グッと自分に引き寄せた。 女相手だからと言って手は抜かない。 彼は気に入らなければ散々に殴って、自分が納得いくまで謝らせる。 「何て言った、お前」 ボソリと零した言葉を聞いて、原田は顔を真っ赤にしながら智幸に先程の台詞をぶつけた。 手が震えて、冷や汗をかくくらい緊張している。 胸ぐらを掴まれるなんて初めてで恐ろしく苦しかったが、それでも目の前にいる弱った獣を放ってはおけなかった。 「は、ハル、さんは、誰かわからないけど、智幸くんを、そんなにしてほっとくんでしょ!?何がいいの、他の人じゃダメなの!?わ、私は絶対、智幸くんに苦しい思いも、寂しい思いもさせない!!」 意を決した告白だった。 「私は智幸くんが好きだもん!!好きな人に悲しい顔してほしくないよ!!絶対、絶対、」 グッと息を飲んだ。 「絶ッッッ対、私は貴方を1人にしない!!」 「っ、、」 違うんだ、ハル。 お願いだからこっちを向いて。

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