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第35話「ユキの帰宅」
[帰る]
その連絡は、今から1時間程前に送られて来たものだった。
(帰ってこないなあ)
お互いに夕飯は済ませてある。
後は帰ってきて一緒に寝るだけの筈だ。
ほぼ同棲が始まってすぐ、貯めたお小遣いで可愛いパジャマを買った。
セックスが終わった後、コンビニで買った雑誌を眺めていて、ふと思い立って智幸にどれがいいかと見ていたページを見せたとき、
「このもこもこしたやつ」
と無表情で選ばれた少し高いブランドの寝巻きだ。
奮発して買っただけあって見た目も可愛らしく、また肌触りが良くてたまに智幸も意味もなく触ってくるときがある。
そのときだけは、何も考えていなさそうな無垢なぼんやり顔でいてくれるから、原田はその安心できる時間が好きだった。
ガチャ
(あ、)
玄関で鍵を開ける音がした。
「トモくんっ!」
ドアを開けて玄関に入り、そこに佇む智幸を見て原田は彼に飛びついた。
「おかえり!」
会いたかった。
今日1日、久々に一緒にいられなくて寂しかった。
どんなに殴られても、酷い事をされても、原田が智幸を想う気持ちは変わらない。
「、、、」
「、、トモくん?」
帰ってきたらすぐ彼は怒られるだろうと思っていた原田は、何の反応もない智幸を見上げて首を傾げた。
いつもなら、気に入らない事があれば学校から帰ってくるなりまず玄関で殴られるか、頭を掴まれて揺さぶられ、相当機嫌が悪ければ壁から床に叩きつけられるのだ。
この危険で悲しい獣は、そうでしか愛を示せない。
原田は智幸をそう思っている。
「どうしたの?何かあった?」
腰に腕を巻き付けながら智幸に問い掛けるが、俯いて原田を見下ろす顔に変化はない。
「、、あれ?ほっぺ、腫れてる」
手を伸ばしてそこに触れると、少し熱かった。
ここ最近たまにある事だったが、どうやら誰かと喧嘩をして来たらしい。
しかし、返り血やら殴った結果の拳の怪我は見慣れていたものの、やり返されて怪我をしている智幸を見るのは初めてだった。
「光瑠くん達といたんじゃないの?誰と喧嘩してきたの?」
原田は智幸の腕を引いた。
とりあえず冷やしておけばこれ以上は腫れないかもしれないと思って、手当てをする為にリビングのソファまで連れて行こうとしている。
「、、、ハル」
「え、?」
連れて行こうとして、その発言で止まった。
優しい手が自分の頬に触れて、ゆっくり撫でてくるものだから驚いて固まってしまったのだ。
「ハル」
「、、また、その名前」
肺の中が凍えて行く。
先程まで考えていたたくさんの楽しい事が手から滑り落ちていくようだった。
(私、妊娠したかもしれないって、最近怖くて、でもトモくんも怖くて、相談できなくて、苦しくて怖くて仕方なかったのに、何でその名前なの?)
いつもな怒りに任せて殴るくせに、「はる」を想うときだけ、原田に重ねて優しく彼女に触れる。
その智幸の優しい手つきが、原田は大嫌いだった。
「、、はるさんじゃないよ、桂子だよ」
奥歯を噛み締めた。
虚しくて悔しくて仕方がない。
こんなに好きなのに、智幸は自分をちゃんと見てくれているのだろうか。
付き合っている筈なのに時折りもの凄く遠くに感じる彼の存在に、原田は心細さと焦り、苛立ちを感じていた。
「トモくん、セックスしよ」
(私を見てよ。私が好きなんでしょ。ちゃんと好きって分からせてよ)
シュルシュル、と着ていたもこもこのパジャマを脱いでいく。
ブラジャーは付けておらず、ジッパーを下ろしてふわふわのパーカーを脱ぎ、下に来ていたTシャツも脱ぐと、ぶるん、と大きな胸が露わになった。
「、、、」
智幸はぼーっとしている。
履いているもこもこのホットパンツも脱ぎ、右足で蹴って廊下の奥に放る。
最近履くようになったTバックを下ろして、素っ裸になると、智幸の服に手を掛けた。
「シよ」
廊下に膝をつき、彼のベルトを外し、ズボンのボタンを外し、ジッパーを下す。
今朝、自分が選んで履かせた黒いボクサーパンツを掴み、性器が出るまでずり下ろした。
「トモくん、シよ。ねえ、シようよ」
勃ちあがっていないそれをパクンと口に入れ、教えられた通りにフェラをする。
舌で先端を刺激して、吸い上げながら頭を前後にゆっくり揺すった。
「っん、トモくん、ねえ、」
それでも智幸はぼーっとしていた。
あくまでも自分が選んで付き合っている女が一糸纏わぬ姿になって奉仕していると言うのに、彼の頭の中には1人の男しかいなかった。
『ユキ』
「、、ハル」
晴也だったら、こんな事はしない。
「トモくん、ねえ、セックス!シようよ、ねえ!」
『ユキ』
「ハル、、ハル」
晴也だったら、自分に媚びを売らない。
晴也だったら、ここでフェラなんてしない。
晴也だったら、セックスなんて望まない。
「ハル、、ハル、どこ、、どこ、」
一向に勃起しないそれを見て、下唇を噛みながら、仕方なくパンツをずり上げてやる。
頭の上から降ってくる「はる」に負けている気がして、原田はゆっくりと立ち上がって智幸を睨み付けた。
「ハル、、」
どこを見ているのか分からない視線に、彼女の苛立ちが増す。
(ハルじゃない、コイツも、周りも、ハルじゃない)
「ねえ何で勃たないの!?ねえ、それやめて!!はるはるってうるさい!!私は桂子!!ねえ、トモくん、ねえ!!」
ドッ、と胸板を叩くと、ハッとして我に返った智幸とやっと目があった。
「、、、」
「うるさいの!!私は私!!私と付き合ってるんだからその女は忘れて!!はるさんて誰なの!?いい加減にしてよ、別れるよ!?」
珍しく自分に怒る原田を見下ろし、智幸の苛立ちはまたぶり返し始める。
(別れる?)
智幸にとって、それはあまりにも簡単に吐かれた一言だった。
「別れたいなら別れる」
「えっ、、な、何で、」
静かに怒った彼を見上げ、原田は息を飲んで固まった。
「お前の代わりなんていくらでもいる」
「ッ、、ち、違うの、別れたいんじゃない!!はるさんを忘れて欲しいの、私を見てよ!私、私っ、、、生理遅れてて、妊娠したんじゃないかって最近ずっと心配で、だから!!私を見て欲しいの!!はるさんじゃなくて!!」
夏の部屋の中。
自室のクーラーしか付けていなかった原田の身体は暑くて怠い空気に包まれて汗をかいている。
「私を見てよ!!ねえ!怖かったの、なのにずっと殴るんだもん、トモくん怖いんだもん!!優しくしてよ、もっと大事にして!!私を愛してよ!!一緒にいてよ!!大事にしてくれないのはいや!!そんなトモくんいらないよ!!馬鹿ァ!!」
泣いて縋る癖に、「いらない」と言われた。
(また、いらない、、)
山中にも言われた事を、今度は原田に言われ、少なからずまた智幸は苛立った。
「私がいなかったら1人になるんだよ!?いいの!?いいの!?1人ぼっちにしてやるから!!」
もう自分が何を言っているのか、彼女自身も分からないのだろうと思う。
智幸は自分の胸板や腹をバンバンと殴ってぐずる彼女の言葉を頭に入れながら、やはりイライラした。
晴也の代わりになれると言ったくせに、彼女がそうなった事はなかったからだ。
智幸にとって「いらない」や「1人」と言う言葉がどんなに重いかも知らずに、傷つけたいがためにそうやって言葉を吐き捨てるのも気に食わない。
(、、ハルは、何で)
頭に浮かぶ男の顔を、もう1ヶ月以上見ていない。
(ハルは何で、俺にいらないって言ったんだ)
言葉の重さを知らない彼女と違って、傷付けたいだけの彼女と違って、晴也は何を思って自分へそう言ったのか。
智幸は呆然とそんな事を考え、自分の身体を殴り続ける原田の肩を軽く押した。
「キャッ!!」
ドタッ、と尻餅をついて床に転がった彼女を見下ろし、黙ったままズボンとベルトを整えて、智幸はぐるんと後ろを向く。
「あ、、と、トモくん、待って、行かないで、トモくんッ!!」
そうしてそのまま、彼女の家から出て行った。
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