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第52話「ユキのけじめ」

「お兄さん、帰って来てないのか」 「、、、」 彼女はボロボロだった。 風呂に入っていないのか、脂でギタギタになった髪の毛を結びもせず掻きむしり、ボサボサにして、出て行ったときと同じ寝巻き姿で、目の下にクマが出来ていた。 「トモくん」 持っていた合鍵を使って部屋に入ったのは、インターホンを押しても彼女が家から出て来なかったからだ。 いつもなら綺麗に整えられている部屋の中は、テーブルや机、棚の上にあったものが全て床に散乱している。 エアコンが掛けられておらず、蒸し暑い上、何か良くない匂いが立ち込めていた。 「お兄ちゃん、彼女さんのところ」 にこ、と弱々しい笑みが返って来た。 彼女はものが散乱したリビングのカーペットの上に力なく座り込んでいる。 「、、原田、」 「桂子って呼んでよ!!他人みたいにしないで!!1人にしないで!!」 「、、、」 それはまるで数日前までの、愚かで醜い智幸そのものだった。 「、、桂子。窓開けるからそこどけ。あと風呂入ってこい」 「逃がさない!!」 近づいて来た智幸の足にしがみ付き、原田はヒステリックに声を荒げた。 「逃げねえし、どこも行かねえから。話し合いに来たんだぞ、今日。お前、話せる状態じゃねえだろ」 「逃がさない、絶対、逃げるなんて許さない!!」 「桂子」 ぽん、と頭に手を乗せる。 一瞬ビクッと反応した彼女だが、ゆっくり撫でると震わせていた身体から力を抜いた。 ハッとしたような顔が上を向くと、智幸にも見える程、涙の跡が頬にあるのが分かった。 「たくさん泣かせたな。ごめん。お前が納得するまで話すから、少し離せ。どこも行かねえから」 「、、、」 優しい声色だった。 「、、お風呂の前にいて。信用できない」 「分かった。ここ開けるからな」 「、、うん」 「それが終わったら、片付けながら話すぞ。これじゃあお兄さんが帰ってきたとき迷惑になる」 「、、うん」 窓を開けた。 彼女が部屋から着替えを取ってくると、2人で脱衣所に入る。 服を脱いで浴室に入っていく原田を見送り、智幸は脱衣所と浴室の間のドアを背にして座り込んだ。 すりガラスでそこに人影があるのを確認しながら、彼女はシャワーの蛇口を捻る。 「、、、」 自分が殴った痕が黄色くなっていた。 彼女が服を脱いでいる最中、治りかけのアザや鬱血を見つける度にどうしても切なくなって目を逸らしそうになったが、智幸は全部しっかりと見ていた。 ここで逃げることを、きっと晴也は許さない。 彼の隣にいると言うのが一体どう言うことかを、智幸はちゃんと理解していた。 常識を身に付けるべきだ。 筋を通す事を覚えるべきだ。 それが彼から逃げないと言うことだ。 「、、ハー」 ゴツ、とドアに脳天を押し当て、体重をかけて寄り掛かった。 シャワーの音が続く。 (何をしてたんだろう、俺は) きちんと向き合って気持ちを伝えた今となっては、逃げ回っていた自分が馬鹿のようだった。 晴也がもし自分をフッたらと考えると確かに今だに恐ろしいけれど、それよりも彼の1番近くにいられると言う大きな安心感が全身を包んでいる。 (全部ちゃんとしよう) 晴也がいるならそれができる気がした。 晴也が言うなら全部うまく行く、そんな気がした。 20分程で原田はシャワーを止めた。 智幸はドアに近づく気配で身体を起こして立ち上がり、彼女が出ててきて身体を拭くのを待つ。 「トモくん」 床にぽたぽたと水を落としながら、原田はやつれた顔でこちらを見上げてきた。 「えっち、するでしょ?」 「しない」 「、、え?」 「髪乾かして、服着て出てこいよ」 用意していたバスタオルを彼女に被せると、智幸はさっさと脱衣所から出てリビングに向かい、床にあるもので覚えている限りのものを元の場所に戻し始めた。 ドライヤーの音が止んでしばらくすると、ガチャンと脱衣所のドアが開いて部屋着に着替えた原田がリビングまで歩いてくる。 生気というものがない。 ふらふらゆらゆらしながら歩いているに加えて、智幸だけを見つめてこちらにやってきている姿はまるで映画に出てくるゾンビだった。 「トモくん」 智幸がものを戻している棚のそばに立つと、パタリとそこに座り込んでしまった。 「ど、して、、どうして、えっちしないの?私の身体は、もういらないの?」 どうして自らを傷付けるような言葉で聞いてくるのだろうかと考えながら、智幸は手に持っていたものを棚に並べ終え、息をついてから原田の目の前にしゃがみ込み、向かい合って正座をした。 (もう傷付きたくないんだよな、原田も) 智幸はちゃんと考えられるようになっていた。 彼女がわざと自分を攻撃するような言葉を遣うのは、智幸から発せられる言葉で自分を傷つけない為だ。 そして何より、自分の遣う言葉よりも優しい言い方を智幸の口から聞いて、まだ大丈夫、こんなに優しい言い方をしてくれるんだから自分は捨てられていない、と思い込む為でもあった。 開け放った窓から、夏の湿気を吸い込んだ風が部屋に舞い込み、ヒラヒラとカーテンを揺すって部屋に溶けていく。 「桂子」 「、、、」 シャワーを浴びて、身体を温めて。 ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した彼女は、名前を呼ばれただけでもう終わりなのだと察したようだった。 辛く、苦しげな表情で泣き出しそうな目をしている。 「俺はお前と別れる。もう終わりにしたい。お前を傷付けるのも、お前がボロボロになってくのも」 その声は、かつてない程に優しいものだった。

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