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第53話「ユキの謝罪」

晴れた匂いは少し埃っぽい。 「なに、それ」 カーペットの上に散らばっていたものは大方片付いた。 元々あまり物が置かれていない部屋だったのだから当たり前だが、20分程手を動かし続ければ、大体のものは元の位置に戻る。 智幸は正座を崩さないまま、真っ直ぐ彼女を見つめていた。 「私は、、貴方に何度も殴られて、身体も心もボロボロで、、なのに、今ここで捨てるの?ねえ、そんなに貴方が楽で良いわけないでしょ?」 「治療費とか必要なら出す。病院も連れて行く。何にしろ、下手に病気にしてないか心配だから、産婦人科に一緒に行きたい。いつでも良い」 「勝手に話しを進めないで。絶対に別れないから!!」 ダン!!とカーペットを殴る強い音が響いた。 「傷付けてた自覚が湧いたなら償ってよ!!今から!!一生私のものでいて!!今すぐ結婚して!!赤ちゃん作って、お父さんになって!!一生ここにいて!!」 「それはできない」 「どうしてよ!!」 「お前を好きじゃない。今までもこれからも、好きじゃないし好きになれない」 「ッ、、、」 ボタタ、と溢れた涙がカーペットに落ちて染み込んでいく。 握り締められた手の先の白くて細い腕には、アザはなかった。 「何でそうやって人を傷付けられるの!?償ってよ!!」 「償うけど、好きでもないのに付き合い続けて結婚して子供作ってって幸せか?お前」 「幸せだもん!!」 「お前のことを好きじゃない限り、そうやって無理矢理にでもそばにいろって言うなら、俺はまたお前を殴る。できた子供も、お前の親も、兄貴も、殴ると思う」 「ッ、はあ!?」 蒸し暑い部屋の中に時折り風が入ってはくるものの、2人はじっとりと汗をかき始めていた。 「何言ってるの!?傷付けてごめんって言ったそばから!」 「一緒にいたら傷付けるから別れたいって言ってんだよ。俺は、誰といてもイライラする。それが抑えられない」 「じゃあなに、これからどうするの!?家族は海外でしょ!?行くの!?それとも今は他の女に暴力振るってるの!?」 「違う」 「じゃあ何なの!!何で私といられないの!!殴られてもいいよ、無理矢理犯されても良いよ!?」 詰め寄ってきた原田が智幸に縋り、キスを迫る。 けれど、それをゆっくりと丁寧に拒否して腕を掴み、彼は彼女を静かに見つめた。 「今は誰にも暴力振るってない。落ち着いてる」 「わ、私といたら、、何でそれができなくなるの?」 涙はまた止まらなくなっていた。 それを見つめた智幸は、そばに置いてあったティッシュケースからちり紙を抜いて、グイ、と原田の目元に当てる。 「ごめん。無理だ。俺は、、小さい頃から親がそばにいてくれなくて、、ハルだけが、そばにいてくれた。ハル以外の奴がそばにいると、身体が痒くて変な感じがする。イライラしてきて、、話しかけられると吐きそうになる。俺は、あいつ以外皆んな苦手なんだ」 「また、、その、名前」 原田は目を見開いた。 智幸が渡してくれたティッシュを受け取り、目元を拭いて、俯いて辿々しく喋り始めた智幸を見つめている。 こんなに子供のようで、毒気がない智幸を初めて見たからだ。 「、、ヒカルくんは?梅若先生とか、山中くん達は?」 「正直、皆んな違う、あいつとは。俺は、あいつ以外は本当に苦手で、嫌になってくる。皆んながどうとかじゃねえな。俺自身が嫌なんだ。ハルといない時間の自分。ハルに見てもらえないときの自分。ハルがいないと何にもできなくなる自分。今もそうだ」 「、、、」 「あいつじゃなくてお前といる自分が気持ち悪い。本当ならお前のこと傷付けずに、俺なんかと関わらせずにいさせたかった。殴って、酷いことして、それしかできなくて、本当にごめん」 原田は腹の底が捩れそうだった。 おかし過ぎる。 目の前にいる生き物は、必死に手懐けたあの寂しがり屋の凶暴な獣ではないのだろうか。 あれの皮を被った小さなウサギか何かか。 そんな事を考えていた。 「許して欲しいけど、許せないと思う。取り返しのつかない事をしたのに謝ることしかできなくて、本当にごめん。思い出さないように、俺はお前の前から消えたい。お前の言う償って欲しい内容を絶対に叶えられないから」 謝罪なのか拒絶なのかが分からない。 少女は困惑していた。 飲み下すしかない鋭利な刃物を腹に収めることができず、ブルブルと震えて怒りと悲しみに耐えている。 「いやだよ、、何でその人なの、、その女のどこがいいの?その人なら殴らないってこと?」 女ではない、と訂正するのはやめにした。 晴也の存在がバレるのは、それはそれで厄介そうだったからだ。 「俺はあいつは殴れない」 「っ、」 「殴れたとしても、殴らない。傷付けたくない。大事にしたい」 それを聞くと、原田はもう収まらなくなった嗚咽と共にわんわん泣いた。 あまりにも悔しかった。 憧れていた好きな人と付き合えたのに、一瞬も大事にされなかった。 やっと優しくしてくれると思ったら、彼を捨てた筈の女がそばに戻っている。 (はる、はるって誰、何で私じゃないの、何でその子は殴らないの、優しくするの、何で、) こんなに好きなのに、どうして自分が選ばれないのだろう。 「整形しても、だめ?はるさんに成り切るから、、それもダメ?はるさんより大事にするし、トモくんの言うこと全部聞くし、お願い叶えてあげるから、、将来働かなくていいよ?私が働くから、だから、」 「原田は、ハルにはなれない」 叩きつけられる現実があまりにも辛かった。 「フラれるかもよ?私ならフラないもん。ずっとずっと、ずっと一緒に、」 「ハルは絶対俺を捨てない。俺もハルを絶対に捨てない」 「、、、」 「あいつだけは、俺を1人にしない」 言葉の重みが違う。 原田はそれをひしひしと感じながら、また喉が枯れるほど泣いて叫んだ。 窓の外に漏れ聞こえても、隣の部屋から壁を叩かれても、とにかく泣き叫んで床に突っ伏した。 「ごめん」 智幸は何度もそれだけを伝えた。 どのくらいそうしていただろうか。 原田は声が出なくなるとうずくまったまま動かなくなり、しばらくそのままでいた。 時刻は12時21分。 太陽は真上に上がっている。 「、、無理、なんだよね」 それは落ち着いた声だった。 ゆっくり顔を上げて近くにあったティッシュの箱に手を伸ばし、何回か鼻をかんで、涙を拭いて、泣き腫らした顔で原田は智幸と向かい合った。 「無理だ。ごめん」 「、、友達でなら、いてくれる?」 「原田が辛いと思う。怖いだろ、俺のこと」 初めに部屋に入って頭を撫でたときに気がついていた。 彼女は近くで智幸が動くと一瞬顔を歪める。 明らかに、殴られる想定をしているのだ。 「怖くないよ、、好きだよ」 もはや歪な感情に思えた。 「、、原田がいいならそれでいい」 「うん。じゃあ、友達だね」 「ん」 原田から差し出された手を握り返し、2人は軽く握手をしてすぐに手を離した。 「身体のアザは、もうそんなに痛くないの。別に倒れたりとかもしてないから大丈夫。産婦人科は、、由依ちゃんと行くね。お金は請求する」 「分かった」 「、、あのさ、」 少し照れたような表情は、いつぶりかの彼女らしい顔だった。 ようやく元に戻った、と智幸は胸を撫で下ろす。 また、頭の中のもやが消えた気がした。 「はる、さん?とは、その、、付き合ってるの?」 「付き合ってる。やっと、、許してくれた」 「、、そっか」 俯いて視線を逸らし、何処か恥ずかしそうにボソボソとしゃべる智幸を見て、原田は胸が締め付けられた。 悲しくて、悲しくて、絶対的な敗北に打ちひしがれそうだった。 「好きなんだね」 「、、うん。ハルがいれば、何とかなるから。もうお前らのこと、傷付けない」 見たこともない笑顔を見せられて、原田もニコ、と笑い返した。 (良かったね、トモくん) 握り締めた拳が、ブルブルと震えている。

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