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11:水無瀬くんが風邪引いた

 見事に、高熱が出た。  昨日、学校から帰ってきてすぐ、喉がいがいがすると思っていたら、夜になって熱が上がり始めた。  今朝の体温は三八度五分。母さんに学校を休む旨連絡を入れてもらった。美海には「ハルくん、やっちゃったね」などと同情された。  九時を回った頃、ふらふらしながらかかりつけの内科に駆け込むと、扁桃炎だと診断された。ああ、またか——と、俺のみならず医者もそう思ったことだろう。昔から扁桃腺が平均より大きいらしく、そういう人は炎症を起こしやすいのだとか。  なんとか家に帰り着き、パジャマに着替えて、自室のベッドに潜り込む。  ベッドサイドにいつのまにか加湿器が置いてあって、白い水蒸気を吹き出していた。もやもやとしたそれを見つめていると、眠気が襲ってくる。うとうとと重い瞼を閉じた後、夢も見ずに眠り込んだ。  目を覚ますと、昼近くになっていた。  体がだるい。熱が下がった様子はなかった。落胆していると、枕脇に置いてあった充電しっぱなしのスマホが目に入った。手を伸ばし、ディスプレイをつける。いくつかラインが届いていた。 『湿度上げといたよ。鍋に雑炊ありです!』  どうやら母さんが出勤前に加湿器をセットし、さらには昼飯を作ってくれたらしい。熱に浮かされた俺はまだ食欲が沸かない。食べれたら食べる、と返信した。  もう一つは御子柴だった。そっけないデフォルトアイコンの横に、メッセージが表示されている。 『風邪か? しんどかったら返信不要』  送信時刻は九時五二分。一時間目の後の休み時間だろうか。俺はのろのろと文字を入力した。 『扁桃炎だって。俺、よくあることだから』  すると、すぐ既読がついた。あぁ、そうか。今、昼休みか…… 『そうなんだ。確か熱出るんだっけ』 『朝は三八度越え』 『うわ』『下がらない?』 『計ってないけど、多分まだ下がってない』 『そっか、あったかくして寝とけよ』 『うん』  そこでやりとりは途切れた。御子柴は気を遣ったんだろう。でも俺はぼんやりした眼差しで、依然、御子柴とのトークルームを見つめていた。別に少しぐらい大丈夫だから、もうちょっと相手して欲しかったな、などと思いながら。 「いやいや……あいつ学校いるじゃん……」  俺も学校を休んでるし、今日は教室で昼飯を食っているだろう。きっといつものようにクラスメートに囲まれながら。御子柴には御子柴の時間がある。それを独占したいだなんて言えない。  もぞもぞと布団を引き上げると、口元までを覆い隠す。さすがに起きてすぐ睡魔はやってこない。俺は瞼の裏に映る御子柴からのメッセージを、幾度となく読み返していた。 「……めんね、晴希(はるき)——まだ、寝て……かも」 「——いえ。い……すよ」  廊下からくぐもった会話と二人分の足音が聞こえる。いつの間にかまた眠っていたらしい。薄く目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光が赤みを帯びていた。  背中に取り憑いていた悪寒が幾分ましになっている。俺が緩慢な動作で起き上がると同時に、静かなノックが部屋に響いた。 「……はい……」  まだ痛む喉から掠れた声を出す。どうやらちゃんと届いたようで、ドアががちゃりと開いた。  そこにはパンツスーツ姿の母さんがいた。そしてその後ろに頭一つ分背の高い、御子柴が立っていた。俺は目をしぱしぱと瞬いた。 「晴希、起きてたんだ。ちょうど良かった。なんかめちゃくちゃかっこいい子がお見舞いに来たよ」 「なんすかそれ」  部屋に入る母さんに続きながら、御子柴が苦笑している。俺は両者をきょろきょろと見比べて、まず母さんに尋ねた。 「会社は?」 「早退してきた。晴希のこと話したら、みんな帰ってやれって言うから。もう高校生なのにねえ。でもお言葉に甘えた。美海の学童のお迎えも忘れずにしたよ」 「忘れちゃ困るって……」 「はいはい。あ、雑炊食べた?」 「食べてない……」 「どう? 食べれそう?」 「うん」 「じゃ、持ってくるね。ごめん、御子柴くん。食べながらでもいい?」 「全然いいっす」 「ありがとう」  母さんがキッチンへ向かう。御子柴は鞄をごそごそとさぐって、クリアファイルに入ったプリント類を取り出した。 「これ、今日の授業のやつな。机の上に置いときゃいい?」 「あー、うん……」  扁桃腺が腫れても、高熱が出ても、授業は待ってくれない。がっくりしたところで、御子柴が首を傾けて、覗き込んできた。 「熱下がった?」 「えーと、どうだろ……。あ、っていうか」  俺は慌てて口を塞いだ。怪訝そうに御子柴は小首を傾げている。 「お前、今度の土日、なんかに出るんだろ」 「ああ、芸劇のオケコンね」 「うつったらどうすんだよ」  御子柴が何か返そうとしたその時、ドアが開いた。  母さんが小鍋に入った雑炊を持ってきた。火から離れても尚、ぐつぐつと煮えたぎっている。二つのマグカップからも湯気が立ち上っていた。 「はい、どーぞ、粗茶です。あ、クッション持ってきたから座ってね。ごめんね、床で」 「いえ、全然。ありがとうございます」 「ねえ、ところで、御子柴くんって御子柴くん?」  まったくもって意味不明な母さんの質問に、御子柴は可笑しそうに肩を揺らした。 「御子柴涼馬です」 「そうだよね、やっぱり。ピアニストでしょ? 去年の格付けチェックでピアノ弾いてたよね?」 「弾きました、弾きました」 「あれ、私、当てたんだよ。一回目でピンときた」 「——お母さん、さては才能あるっすね」 「だってー! どうしよう、晴希」 「母さん、うるさい……」  痛む頭に黄色い歓声がもろに突き刺さる。母さんは上機嫌に「ごっめーん」と言いつつ、再び俺の部屋を出て行った。 「お母さん、若くね? いくつ?」 「三十七」 「うちの母親より十歳も下じゃん」  お茶をすすりながら、御子柴は目を丸くしていた。俺はと言うと、熱々の雑炊に手が出せず、御子柴と同じくマグカップに口をつけていた。 「あ、さっきの続きだけどさ。扁桃腺炎はうつらないって」 「そうなの?」 「うん、ネットで調べた。咳してもくしゃみしても平気らしいぜ」  確かに扁桃腺が腫れてるだけだもんな。体の中に菌やウィルスが入ったわけじゃないし、症状としてもひたすら喉が痛くて、熱が高いだけ。そんなものなのかもしれない。  少なくともうつすことはないと知って、ほっと一安心していると、御子柴が急に声を潜めた。 「ちなみにキスもオッケーだって」  ぶっ、とお茶を噴き出しかける。マグカップの中で揺れたお茶が、その熱でもって舌先を襲った。あっつ……! 俺は涙目になって御子柴を睨む。 「……今日はしないからな」 「はいはい」  どうせまた「するって言ってないじゃん」などと減らず口を叩くものとばかり思っていた俺は、あっさり引き下がった御子柴を珍しげに見つめる。  御子柴は柔らかい表情で俺を見返してくる。なんとなく調子が狂い、俺はようやく音を立てなくなった雑炊を口に運んだ。  よほど腹が空いていたのか、俺はぺろりと雑炊を平らげた。御子柴が空の小鍋を引き取って、盆に置いてくれる。俺が冷めたお茶で処方された薬を流し込んだのを見計らって、御子柴がこちらに手を伸ばした。  前髪が持ち上がったかと思うと、額に手を添えられる。ひんやりとした冷たさと大きな手のひらに、どきりとした。 「うわ、めっちゃ熱……。ほら、さっさと寝る」  そのまま額を軽く押されて、俺は背中からぼすっと布団に倒れ込んだ。御子柴がご丁寧に掛け布団を肩まで押し込んでくる。熱と雑炊で火照った体には暑すぎる。  熱に浮かされた目を抗議の意味で御子柴に向けると、一拍遅れてふいっと顔を逸らされた。そのそっけない態度がなんだか面白くなくて、俺は口を尖らせる。 「なんだよ」 「……なんでもない。体調悪化したら悪いし、俺、もう帰るわ」  御子柴の手が静かに離れていく。途端、低めの体温と優しい重みが消えて、とても心許なくなる。俺は置いて行かれそうになった子供のように、御子柴の制服の裾をぎゅっと掴んだ。  御子柴が肩越しに振り返り、目を丸くしている。何してんだろ、と自分でも思う。けど、縋り付くような表情を変えられない。 「時間、あんまない?」 「いや……あるよ」 「じゃあ、さ、もうちょっとだけ……」  消え入りそうな声でやっとそれだけ言う。すると御子柴は忙しなく瞬きを繰り返した後、「あー、もう!」と叫んで、再度クッションにどっかと腰を下ろした。 「え、何、怒ってんの……?」 「怒ってねえよ、いや、怒ってるよ!」  どっちだよ。そう尋ねる前に、御子柴はやにわにベッドの空いてるスペースへ突っ伏した。  なにはともあれ、まだいてくれるらしい。俺は嬉しくなって、ベッドの上にある御子柴の手をちょいちょいと突いた。 「なぁ、もう一回おでこに手あてて」 「……甘えんな……」 「あ、ごめ——」  思わず引いた手を、逆にぎゅっと引き寄せられた。  御子柴はもう片方の手で俺の前髪を上げると、そっと額に触れた。さっきと同じ、冷たい温度が熱を吸い取ってくれる。触れる手の皮は少し固い。俺は半ば夢見心地で目を閉じた。 「気持ちいい……」  しばらく御子柴から返る言葉はなかった。が、やがて盛大な溜息が聞こえたかと思うと、ふっと苦笑された。 「冷えピタにすれば?」 「みこピタがいい……」 「お前、今、すげーしょうもないこと言ってる自覚ある?」  こっちは病人だ、そんなのあるわけない。  分かっているのは、御子柴が傍にいてくれることだけだ。  例えようのない安心感に包まれながら、俺は再び眠りに落ちた。

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