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10−6:チョコレート・カプリチオ 6

 帰ってきた母さんに美海を託した俺は、夜の住宅街を歩いていた。  首にはもらったマフラーを巻いて、紙袋を一つだけ持って。どの家庭も夕食がひとしきり済んだのだろう、辺りは静まり返っている。街灯の下に、俺の足音だけが小さく響いていた。  辿り着いたのは道の角にある公園だった。いくつかの遊具と砂場、木々に囲まれた申し訳程度の遊歩道がある。滑り台の脇に立っている人影を見つけ、俺は呼びかけた。 「悪い、突然呼び出して」 「おー」  御子柴がこちらを振り向く。黒地に蛍光グリーンのロゴや模様が入ったジャージ姿だ。靴はいつものスニーカーではなくランニングシューズである。 「走りに行くところだったから、ちょうど良かったわ」 「そっか。えっと、ちょっと座らね?」  俺が指差したのは遊歩道に設置されているベンチだった。御子柴が軽く頷いたので、そちらへ向かう。  遊歩道は外灯が一つしかなく少し薄暗い。ベンチに座ると、木の葉の隙間から月明かりがちらちらと覗くのが分かった。  隣に腰掛けた御子柴が俺の手元を見る。 「なんつーか、まぁ、期待しちゃってるけど、いい?」 「い、いいけど」  でもそんな期待に応えられるものか……。俺は緊張しながら、紙袋の中身を差し出した。  改めて見ると我ながらどうかと思う。どこの家にでもあるタッパーだ。案の定、御子柴は目を丸くしていた。 「ごめん、もうラッピングの箱、残ってなくて……」  水色の蓋を開けると、格子状にカットされた生チョコが出てくる。端っこを切り落としもせず、まるで不格好だった。これが首元にあるマフラーと引き換えかと思うと、なんて不平等な取引なのだろう。  口を噤んでいる御子柴から、思わず視線を逸らす。あぁ、こんなの渡さない方がマシだったか、やっぱり—— 「もしかして、帰ってから作った?」 「う……。そう、昨日の材料が余ってたから。こんなのでほんとごめん」 「いや——てっきり、コンビニの売れ残りかなんかだと思ってたから」  タッパーの中の生チョコを覗き込んで、御子柴は自分の口を手で覆っている。 「手作り……。うわ、どうしよ……」 「や、やめとこうか」 「なんでだよ。食べるわ」  顔を思いっきり顰められ、タッパーをひったくられた。御子柴が長い指で摘まんだチョコを、ひょいっと口に放り込む。 「うまっ」 「マジ?」 「マジマジ。すげー、こんなん作れんだ」  立て続けにチョコを食べていく御子柴から目が離せない。唇が妙な形になりそうなのを必死にこらえる。  四つ目に手を伸ばそうとしていた御子柴が不意にこちらを見た。口の中にあったチョコをごくっと飲み下す。そして軽く咽せた。 「びっ……くりした。急にその目はやめろ……」 「えっ、なんか変だった?」 「変っていうか。変じゃないけど」  珍しく御子柴が口ごもっている。俺は拳でむにむにと頬を押した。やばい、にやけてたのかもしれない……  御子柴は軽い溜息をついた後、チョコの一つを差し出した。 「お前も食べる?」 「あぁ、そういえば味見してなかった……」  急いでいたとはいえ、味くらいちゃんと確認しておくべきだった。御子柴が摘まんでいたチョコを差し出してくるので、反射的に口を開ける。  が、御子柴はくるりと手を返すと、それを自分の口に放り込み、にやりと口端を釣り上げる。俺はほとほと呆れかえった。 「お前……」  小学生か。いや、美海でもそんなことしないぞ——  そう抗議しようとしたその時、御子柴の腕が素早くこちらに伸びた。大きな手の平が後頭部に添えられたのも束の間、有無を言わさぬ力で引き寄せられる。 「んっ——!」  触れあった唇に舌が差し入れられる。あっという間にこじ開けられた口内に、甘い塊がねじ込まれた。溶けかかった生チョコのねっとりとした感触が舌の上で広がる。  ふ、と短く息を吐くと、独特の苦味のあるフレーバーが鼻から抜けていった。俺の口の中に広がったチョコを、御子柴の舌が舐め取っていく。その度に甘い味を覚え込まされる。 「ふ、——ぅ、ん……!」  息も吐かせぬ勢いのキスに、俺はたまらず御子柴の背に腕を回した。ジャージの生地を強く握りしめる。  唾液に溶けたチョコを飲み下すのに必死でいると、次第に体が熱くなり、頭がぼんやりとして、溺れかかっているような感覚に陥る。チョコはほとんど消えてなくなり、少しざらざらとした味蕾から、甘い残滓を感じるのみだ。  それでも体温が高まっていくのを止められない。重なった部分からお互いが溶け合っていく感覚に、俺は我知らず酔いしれていた。  するりと舌が引き抜かれる。唇が離れ、熱が遠ざかっていった。  くらっと目眩を覚えたところを、御子柴に抱き留められる。俺は荒い息を吐きながら、御子柴の肩口に強く額を押し当てた。未だ口内に残る甘さに、燻る熱に、ほとんど夢見心地で呟く。 「……気持ち、いい……」  俺の背中に回っていた御子柴の腕の力が急に強くなった。ぼんやりと二、三度瞬きし、はっと我に返る。 「い……今、俺、なんか言った?」  見上げた御子柴の顔は小刻みに左右へ振れていた。 「……別に、何も聞こえなかったけど?」 「そっか。あ、いや、なんでもないから」  そろそろと体を離す。御子柴も特に抵抗せず身を引いた。何故か明後日の方向を見ながら。 「とにかく、まぁ、ありがとな。夜遅いし、家まで送るわ」 「あぁ、いいよ、別に。これから走らなきゃなんだろ?」  か弱い女の子じゃあるまいし、などと思っていると、御子柴の目が意地悪そうに弧を描いた。 「最近、ここらへんで変質者が出たって話だぜ。男子高校生がおっさんに後ろから突然、抱きつかれたんだと。お前、細っこいし、そのまま担がれてどっかに攫われたりして」 「……お、お願いできますか」 「素直でよろしい」  御子柴が満足げに頷く。俺は未だ口の中に残るチョコの苦味と甘味を、舌の上で持て余しながら、そっと息を吐いた。  連れ立って夜道を歩く。御子柴がタッパーの入った紙袋を揺らした。 「すげえ美味かったから、また来年も欲しいな」  随分、気が早い話だ。俺は自然と頬を緩めた。 「これぐらい、いつでも作ってやるよ」

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