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12−1:今日、ちょっとだけ進んでみてもいい? 1

 ——御子柴の周りの空気が薄い気がする。  妙な表現だけど、俺にはそうだとしか言えなかった。  教室は授業と授業の間、憩いの一時を迎えている。  御子柴は俺の席の前で、設楽と談笑していた。その手に映画のブルーレイディスクを持っている。確か吃音症の英国王が言語療法士の力を借りて、最後は立派な演説を果たすという内容だ。  設楽に勧められて、俺も観たから知っている。御子柴は設楽にあらすじを軽く教えてもらっているところだった。 「へえ、なんか感動できそ」 「実際、感動すると思う。あと実話なんだよ、これ」 「マジかー」  しげしげとパッケージを眺める御子柴に、俺は軽く首を捻った。  黒目がちの瞳はまだ観ぬ映画に思いを馳せているのか、いつも以上にきらきらと輝いている。クラスメートと話すときでも背筋がしゃんと伸びていて、居住まいが美しい。黒い髪は女子がうらやむほどつやつやしていて、整った横顔はもはや嫌みったらしいほどだ。つまり、いつも通りで相変わらずでなんの変哲もない御子柴涼馬なのである。  なのに、傍にいるとなんだか少し息苦しい。この違和感に気づいたのは一昨日頃だっただろうか。それからずっと続いている。最初は妙な感覚だと思っていた。何かの勘違いだとも。だが俺はいい加減、気にせずにはいられなくなっていた。 「——水無瀬も観たんだって?」  御子柴が不意に俺の方を振り向く。設楽とも目が合い、俺はとっさに頷いた。 「あー、うん。面白かった」 「じゃ、期待大」  ディスクのパッケージを掲げて、御子柴は無邪気な笑顔を浮かべた。  途端、肺がぐっと詰まるような感覚に襲われる。困った俺は密かに眉根を寄せて、曖昧に頷いた。  四時間目の授業を受けているときに、ふと気づいた。  いつもは熱心にノートを取っている御子柴が、時々生欠伸をしている。  忙しなく動かされているはずのシャーペンの動きが途絶え、視線はぼうっと黒板に向けられていた。そして重たげな瞼が我に返ったようにはっと開き、また授業内容を書き取り始める。  御子柴は幾度となくこの行動を繰り返していた。  だが授業が終わるなり、御子柴は俺の方に向き直り、溌剌とした表情で言う。 「水無瀬、メシ行こうぜ」 「……おう」  俺の気のない返事にも、御子柴は気づかず、意気揚々と椅子から立ち上がる。お互い、購買のビニール袋をぶら下げて、教室を出た。  一歩先を行く御子柴は首を左右に傾けて、筋を伸ばしている。よく見る御子柴の癖だった。凝った体をほぐしているのだろう。俺は足を大きく前に出し、御子柴の隣に並んだ。 「なぁ、なんか疲れてる?」  御子柴はちらりと俺を見やった後、廊下の窓の外を眺めた。 「んー、そうかも」 「忙しいのか?」 「来週末、二重奏のゲストに呼ばれててさ。トチるわけにはいかねーから、割と夜遅くまで練習してっかな」  つまり寝不足か。授業中の様子を見るに、確かにそうかもしれない。  ただどうしてだろう。腑に落ちる説明を聞いても、息苦しさが消えてくれない。  屋上の扉を開けて、外の新鮮な空気を吸っても、それは変わらなかった。  いつものフェンス越しに腰掛けて、温かいカフェオレの缶で手の平を温める。御子柴はミネラルウォーターのボトルのキャップを開けて、それをちびちびと飲んでいた。俺が缶のプルを開けても、サンドウィッチに手を伸ばしても、御子柴は水しか飲まない。 「食わねぇの?」 「お前、俺がいつもいつもがっつくと思うなよ。たまにはのんびりしたいの」 「……あっそ」  もそもそとハムレタスサンドを端から食べる。御子柴は一向にビニールの中身に手を着けようとしなかった。 「水無瀬こそもっと食べたら? 細っこすぎて心配になる」 「悪かったな。昼は眠くなるからあんま食べないだけだよ。夜はがっつり食べてるし」 「じゃ、昨日何食べた?」 「え? えっと……あー……なんだっけ」 「あはは、ボケてんじゃん」 「そ、そう言うお前は何食べたんだよ」 「……なんだっけ」 「ったく、どの口が言ってんだ」  俺はカツサンドの袋を開けながら、むすっと唇を尖らせた。御子柴はとぼけるように空を眺めながら、また水を一口飲んだ。 「なんか、今日、寒……」  御子柴が自分の腕をさすっている。その顔がわずかに青白く見えて、俺は目を瞠った。 「なぁ……本当に具合大丈夫か?」 「何が?」 「何がって……」  俺は未だ手が着けられていない御子柴の昼食に目を落とした。御子柴はひょいと肩を竦める。 「実は朝飯食べすぎたんだよ。母親が昨日の残りもん、全部出してきてさ」 「何食べたんだよ」 「それは……えっと。なんだったかな」  口に手を宛がい、御子柴は俯いた。  俺はたまらず大きく息を吸い込んだ。やっぱり御子柴の周りの空気が薄い。妙な胸騒ぎが止まらない。  そんな俺の不安を見透かしたように、御子柴はへらりと笑った。 「つーか、何。心配してくれてんの?」 「……そうだよ」 「はは、俺、愛されてんなー」 「あのな」  俺が食い下がろうとしたその時、予鈴が鳴り響いた。校舎の一番上にある時計を見ると、すでに十二時五十分だった。 「あーあ、なんだかんだ言ってたら、昼飯食いっぱぐれちまったな」  ビニール袋とペットボトルを持って、御子柴が立ち上がる。俺が言い募ろうとして、御子柴を見上げた時だった。  がしゃ、と金属が鳴る音がした。袋とペットボトルが床に落ちる。御子柴の指がしがみ付くようにフェンスに食い込んでいた。足の力が抜けたのか、そのままずるずると片膝を着く。 「御子柴……!?」  俺に背を向けてしゃがみこむ御子柴を見て、前に回り込む。  御子柴は口元を手の平で押さえ、大きく目を見開いていた。どう見ても顔面蒼白で、額に脂汗を浮かべている。 「御子柴、しっかりしろ!」  思わず肩を掴むと、御子柴はぎゅっと目を閉じて、首を横に振った。 「やめ……ちょ、待って。う——」  聞いたことのない苦しげな声だった。情けないことに、混乱して動けない。この場合は救急車? それとも誰か呼んできた方がいいのか? でも寒い屋上に御子柴を残すわけにはいかない——  俺はとっさに学ランを脱いで、御子柴の肩にかけた。御子柴は尚も苦しげに弱々しい呻きを上げていた。フェンスから手が離れ、完全にうずくまってしまう。  しっかりしろ、俺。自分を叱咤して、スマホを取り出す。頭を過ったのは休み時間に話していた設楽の顔だった。 『——もしもし、水無瀬?』 「設楽、助けてくれ。御子柴が、御子柴が……」 『え? お、落ち着け、何があった? 今、どこ。屋上?』 「そう、屋上……。急に、苦しそうにして……どうしよう、俺、どうしたら」 『とりあえず、俺が行くから。先生とかも呼んできてもらう。待ってろ』 「分かっ、た——」  設楽との通話が切れると、不安がどっと押し寄せる。俺はそれを振り払って、御子柴の背中をさすった。冷たい風から守るように、体ごと覆い被さる。御子柴はついに横に倒れた。 「大丈夫だ、今——」 「みなせ」  焦点の合わない目が、ぼんやりと俺を見上げている。御子柴はゆっくりと手を伸ばし、俺の頬に触れた。その指先は氷のように冷たい。 「ごめん……」  そう呟いたっきり、御子柴は静かに目を閉じた。  腕の力が抜けて、床に落ちそうになるのを、とっさに掴む。俺は祈るようにして、ずっと御子柴の手を握りしめていた。

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